クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

安らかに世を去る

 奈良高畑教会の夜の祈祷会はリモートの祈祷会です。今は参加者が交代で話をすることになっています。今は、聖書の人物を取り上げて話をすることになっています。今週担当された方はシメオンを取り上げました。ルカ福音書2章に登場します。シメオンはメシアに会うまでは死ぬことはないと聖霊のお告げを受けていました。このシメオンは神殿で幼子のイエス様に出会い、神さまをたたえて言いました。 

ルカ 2:29
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」。 

 私は話を聞きながら、このシメオンの言葉を思い、何が自分の身に起きたら、いつ召されてもいいと思えるのかを考えました。以前、金沢元町教会の年配の教会員の方が「枕元にイエス様が現れたので、私はいつ召されてもかまいません」と話されたことも思い出しました。何が起きたら、命を召されてもかまわないと言えるのでしょうか。もしそれをいったん口にしたら、そしてそれが起きたら召されると思うと口にすることにためらいを覚えます。ただ私は神さまからお告げを受けているわけではないので、それが起きたとしても召されるとは限りません。召されるとは限らない、そう信じることにして、話を続けます。

 洗礼者ヨハネはイエス様について聖霊による洗礼を授ける方であると語りました。これは4つの福音書に書かれています。つまりどの福音書もイエス様は聖霊による洗礼を授ける方であると書いているのです。それでは、イエス様は私に聖霊による洗礼を授けてくださったのか、まだなのか、それが私には分からないのです。

 聖霊による洗礼は基本的に二つの理解があります。ある人たちは聖霊による洗礼を受けたら異言を語ると主張します。異言を語ることは聖霊による洗礼を受けたしるしだというのです。別な人たちは、水の洗礼と同時に聖霊による洗礼を受けたと理解します。つまり洗礼を受けてクリスチャンになった人は聖霊による洗礼を受けていると解釈します。それは信じる人の心に聖霊が住んでおられると信じるからです。

 私はどちらの立場にも疑問を感じています。私は異言を語りません。私は聖霊が私の内におられることは信じています。でも聖霊による洗礼を受けたとは思えないのです。私が聖書を読んで抱く疑問の一つは、聖霊による洗礼は何かという疑問です。いまだ答えは分かりません。

 そこで聖霊による洗礼が何かが分かったのなら、召されてもいいという思いが私にはあります。でもその場合、もし私が聖霊による洗礼を受けていないなら、受けてからなら召されてもいいという思いです。

マタイ 3:11
わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。  

マルコ1:8
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。

ルカ 3:16
そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

ヨハネ 1:32~33
そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」。 

  

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