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隠退牧師 holala によるブログ

信仰義認をめぐって(3)イエス・キリストにおける神の救いの約束

 新約聖書においては、信仰義認と言えば、神さまはイエス様を信じる者を義とする、です。神さまはイエス様を信じる者を正しい者と見なします。私たちを正しい者として私たちに関わってくださいます。でも私たちの心に「自分は罪を犯すし、そんな自分を正しい者と見なすというのはどうなんだろう」という思いがあっても不思議ではありません。すると信仰義認の教えを積極的に受け入れることができないという思いが私たちにあるかもしれません。 

ローマ 4:24
わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。 

ローマ 4:5
しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。 

 これらの聖句は、私たちが義とされるのは「信じる」からです。何を信じるのか、違う表現がなされています。「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば」「不信心な者を義とされる方を信じる」。そして「イエス・キリストを信じる」。

 ここでも私たちは神さまの約束を考えてよいのではないかと思います。アブラハムは神の約束を信じたので義とされました。イエス・キリストによる救いにおいて、神さまは何を約束されたのか、です。

 イエス・キリストは救い主です。人間の問題は罪です。人間は罪を犯すという問題を抱えています。さらに罪を犯す者は神に裁かれるという問題を抱えます。救い主は、この神の裁きから私たちを救います。そこでイエス・キリストを信じる者の罪を神は赦され、私たちはもはや裁かれることはないと救いが語られます。しかし神さまはどのような救いを人間に与えようと計画されてイエス・キリストをこの世に送られたのかと思います。

 私が属する日本基督教団では、福音としては罪の赦しが強調されているように思います。聖化はあまり強調されません。福音派の教会では聖化を強調していると聞きますが、律法主義的になりがちだと聞きます。どちらの立場にしても福音に覆いがかかっているような気がします(コリント二4:3)。

 機械が故障をすれば修理して使えるようにします。これはだれもが認めることです。神さまによって人間が創造されたとき、人間は神の目に「極めて良い」とされました。その人間が罪を犯すようになりました。罪を犯す人間、これは神さまの目には不具合のある状態であり、故障のある状態です。つまり修理、救いが必要な状態です。とすれば、人間の救いとは、もとの「極めて良い」状態に回復することだと私は考えます。そして「極めて良い」状態の「人」がいます。イエス・キリストです。イエス・キリストは私たちと同じ人となりましたが、罪は犯しませんでした。このイエス様こそ、救いの目標です。

 パウロはこう語ります。 

フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 

  終末の時に、私たちの卑しい体を御自分の栄光ある体と同じ形に変えるとは、人間の救いがイエス様を目指すことであることを示しています。信仰者の歩みはキリストに似た者となることに本質があります。人は洗礼を受けて信仰生活を始め、イエス・キリストに似た者となる歩みを始めます。それは終わりの日に完成します。

 イエス・キリストにおける神さまの救いの約束、それは信仰者をキリストに似た者にするとの約束です。この神さまの約束を信じる人を神さまは義とするのではないか、と私は考えます。そして信仰者はこの約束を信じ続けて歩みます。

 私たちは自分で自分を修理することはできません。神さまの働き、神さまの助けを受けて修理されつつ生きていきます。イエス・キリストに少しずつ似た人になっていきます。これを聖化と呼んでいいと思います。

 このイエス・キリストにおける神さまの救いの約束を信じる人を神さまは義とします。神さまにとって正しい人というのは、神さまの教えを完全に守る人ではなく、神さまの約束を信じる人です。神さまの約束を信じて生きるつもりなら、生きているなら、神さまによって正しい者にされていると感謝して喜んでよいと私は考えています。

 

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