マルコ福音書 2章13~17節を朝読み、思いめぐらしました。
イエス様が徴税人レビを見かけ、彼に「わたしに従って来なさい」と呼びかけました。レビは従い、イエス様を自宅に招き、そこで食事を共にしました。そこには他の徴税人たちや罪人とされる人たちもいました。イエス様が徴税人や罪人たちと食事の席を共にしているのを見た律法学者が、イエス様の弟子たちに言います。
「どうして彼は徴税人や罪人たちと一緒に食事をするのか」
するとイエス様はお答えになります。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」。
続けてイエス様は語ります。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」
何回も読んだ聖書の箇所ですが、今回ここを読んで、えっ!と思いました。ある気づきを与えられました。というのは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」と言ったなら、次に
「わたしを必要とするのは正しい人ではなく、罪人である」
となるのが言葉の流れからいって、自然だと思ったからです。でもイエス様はそうはおっしゃらなかった。イエス様はこう言われました。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」
イエス様はなぜ、私の予想と違ったことを言われたのかと考えます。聖書を思いめぐらすことが始まります。まず
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」。
これは普通に理解できます。私たちが病気になれば、医者に行きます。元気なときは医者には行きません。私たちは自分が何を必要としているのか分かっています。病気の時は医者に行きます。言葉の流れに沿ってイエス様が次のように言ったとします。
「わたしを必要とするのは正しい人ではなく、罪人である」
すると罪人は自分がイエス様を必要としていることが分かるし、正しい人は、自分がイエス様を必要としないことが分かるという意味になります。これは事実とは言えません。人は、自分がイエス様を必要としていることは必ずしも分かってはいません。多くの人が分かっていません。
私たちは福音を聞いて、自分が救いを必要とすること、イエス様が救い主であることが分かるようになります。しかし福音を聞いたらすべての人がイエス様を信じるとは限りません。信じない人もいるのです。
そうか、イエス様は私たちを信じるように招いておられるのだ。だからイエス様はこう言われたのだと納得しました。イエス様から声をかけられたレビがすぐに従ったと書かれていますが、これも信仰とは招きに答えることであることを教えているのだと理解しました。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」
信仰とは、招きに応じることだとあらためて思わされました。そしてブログを日々書き続けるのも、「今の立場で、福音を証しし、福音を伝えてみたら」とのイエス様の招きに答えることだと自分では思っています。