聖書には神さまの戒めが沢山書かれています。これを守らなければならないとキリスト者は考え、守れない戒めに直面して苦しみます。むずかしいよね、無理よねといって、やり過ごす人もいれば、守れない自分を罪深いと考える人もいます。神の戒めは何のためにあるのでしょうか。
パウロはロマ書、ガラテヤ書で律法(神の戒め)について次のように語ります。
ローマ 3:20
律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
ガラテヤ 3:24
こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
私たちに罪を自覚させる律法、そして私たちをキリストへ導く律法。それでは私たちは律法を全うしなくてよいのでしょうか。パウロは信仰によって義とされた人は律法を確立する、つまり律法を守ると語ります。
ローマ 3:31
それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
あるいは
ローマ 8:4
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
聖霊の導きによって、私たちは律法の要求を満たします。つまり律法を守ることができるようになります。以上は信仰的な理屈です。そして真理です。
ハイデルベルク信仰問答は、イエス・キリストに救われた感謝の応答として私たちは神さまの戒めを守ると教えています。これもその通りだと思います。
神さまはなぜ戒めを私たちに与えられたのか、と私は考えます。それは私たちを祝福するためであると考えます。神さまが私を愛し、私を祝福する手段として、神さまの戒めがあります。私はそう信じています。
「この戒めは守るのが難しい、守るのは無理」と言ってやり過ごすのは、結局、戒めから逃げています。「戒めを守れない、私は罪深い」と言うのもやはり逃げています。 神の戒めに直面するとき、私たちは自分の罪に直面します。そこでどうするか、です。逃げるのは簡単ですが、信仰の成長はそこでストップします。
「天の父なる神さま、私はあなたの戒めに従うことを選びます。あなたを愛し、あなたの戒めを守りたいです。でも私には守る力がありませんし、罪の働きかけを受けて守りたくないとさえ思う心があります。しかし神さま、私はあなたの戒めを守りたいです。助けてください。私を憐れみ、聖霊の助けを与えてください」
このように祈るなら、必ず、神さまは助けてくださいます。罪との戦いは祈りの戦いです。そして勝利が約束されている戦いです。そして神さまの戒めが自分を祝福するものであることが分かります。
神さまの戒めが祝福をもたらすことの証し人になりませんか。