クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

伝道のために祈る

 伝道を考えるとき、伝道しやすい人とそうでない人がいるように感じます。救いというか、心の問題に無関心の人は伝道がむずかしいように思います。16日のブログで、愛する妻を喪った人が教会から離れていったと書きました。新聞の連載小説に書かれていたことです。神さまがおられるなら、なぜ妻を出産してまもなく死ぬような事態を認めたのか。神さまは自分にひどい仕打ちをしたと受けとめ、神を信じる気持ちが失せました。この人は、神さまを求める内的な要求がなかったように思います。こういう人に伝道するのはむずかしいと感じます。

 ある年配の女性がいました。信徒であったご主人が亡くなり教会で葬儀を行った後、礼拝に来られるようになりました。彼女はある時、家庭集会で、自分は死について考えていないと話されたことがあります。70代の方でした。直接聞いていないので分かりませんが、彼女は自分の死を自然のこととして受けとめ、特に自分が死ぬこと、死後のことを問題にしていないようでした。この方もなかなか洗礼を受けようとはしませんでした。

 人は、信仰は弱い人が持つものと考えているのでしょうか。自分は弱くないし、信仰などなくても生きていけると考えている人が多いのでしょうか。人は自分の力で生きていくもの、と考え神に頼ることを考えようとしない人がいるのだと思います。でも神社やお寺でお祈りしている人は多いんですよね。これは信仰の行為ではなく、習慣のようなものなのでしょうか。

 色々な人がいることは確かですが、どんな人でも何らかの形で神さまが働きかけるなら、信仰に導かれるのではないか、そう信じたいと思っています。今週からある方のために祈り始めました。新型コロナの感染拡大を契機としてインターネットを通して教会の礼拝に参加しているのですが、今までは、教会に行くことを敢えて避けていたと聞いています。伝道がむずかしい方です。

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