クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

老いを生きる信仰

 老人は長いこと生きてきました。色んなことを見聞きし、あるいは経験してきましたから、多少のことでは驚かずに自分が直面する事態を受け入れることができるのではないかと想像します。

 結婚している人であれば、自分か伴侶が老いの中で病気になったり、介護を必要とするようになったり、あるいは亡くなるなどのことが待っています。私たちは新しい事態に直面して生きることになります。

 本で読んだのか誰かが語るのを聞いたのか、それは忘れましたが、こんな言葉があります。信仰者は「それにもかかわらず生きる」のだと。事態が自分の願うものではなくても、何でこんな目に遭うのかと神さまに文句を言わずに、それにもかかわらず生きる、信仰によって生きる、つまり自分が直面した事態を受け入れ、神にゆだね、あるいは神の導きを信じて生きる、というのです。

 出エジプトを体験したイスラエルの民は、荒野の旅の中で試練に直面し、神に文句を言い、神にゆだね、神の導きを求めることはありませんでした。その結果、彼らは約束の地に入ることができませんでした。

 「それにもかかわらず生きる」、これは一つの知恵の言葉だと思います。そして私はパウロの言葉も思い出します。

ローマ 5:1~3
わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

コリント二 4:16~18
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

 パウロは苦難や試練を前向きに受けとめようとしているように思います。信仰によって老いを生きる、これは老人の課題であり、恵みだと思います。

 

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