「A長老、こんにちは」
「Bさん、ひさしぶりですね」
「礼拝ではお姿は拝見していますが、声はかけませんでした」
「Bさんとは、何回か礼拝後お話をしましたね」
「はい。最初、礼拝でキリスト者は新しく生まれた存在であると説教で聞いて、新しく生まれたという実感がないので、A長老にお話を聞いてみたいと思ったのがきっかけで何回かお話をしましたし、お話を聞かせていただきました。聖書を読んで感想を申し上げたこともありました」
「そうでしたね」
「前回お話しした最後にA長老は、山上の説教を読んでみたらどうですかと言われたので、マタイ福音書にある山上の説教を何度か読みました」
「読んでみての感想はいかがでしたか」
「率直に言って、どう理解し、どう受けとめていいのかわからないというのが正直な感想です」
「具体的にお話ししてもらえますか」
「たとえば、山上の説教の最初に、幸いな人についてのイエス様の言葉があります。むずかしい言葉は何一つありませんが、私には理解できないというか、ちょっと違うんじゃないか、と思いました」
「たとえば?」
「心の貧しい人々は幸いであるとありました。でも心の豊かな人こそ幸いなのではないか、と私は思います」
「なるほど」
「次に、悲しむ人々は幸いである、とあります」
「誰だって悲しみを味わいたくないと考えていると思います。うれしいこと、楽しいことを人は求めます。それなのに悲しむ人が幸いだなんて、まともな人が言う言葉ではないと思いました」
「義に渇く人々は幸いである。義のために迫害される人々は幸いである。これらも理解できません」
「そうですか。理解できない気持ちは私は分かります」
「敵を愛しなさいとか、だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。これらも理解できないし、理解したいとも思いません」
「イエス様の教えはとんでもない教えということですね」
「はい」
「他にはどうですか」
「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。この教えに反対するつもりはありませんが、自分が完全な者になるなんて、無理というか、ありえないと思います。そういう意味で、これもとんでもない教えです」
「そう考えるのは無理もありませんね」
「それから、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない、とあります。私はイエス様を信じれば、永遠の命が与えられ、天の国に入ることができると信じてきましたので、驚きました」
「山上の説教はとんでもない教えということですか」
「いや、偽善者になるなとか、人を裁くなとか、求めなさい、そうすれば与えられるなどは、理解できますし、従いたいと思います」
「そうすると、理解できる教えととんでもない教えがあるということになりますね」
「はい、その通りです。でもイエス様は頭が混乱しているわけではないと思います。ですから困った、それが正直な感想です」
「分かります。よくわかります。私もBさんと似た思いがないわけじゃないです」
「そしてさらに驚いたのは、山上の教えの最後の言葉です。イエス様が語るのを聞いた群衆は非常に驚いたとあります。驚くのは当たり前だよと私はうなづきました。ところが、群衆が驚いた理由に私はびっくりしました。群衆はイエス様が権威ある者として教えられたことに驚いたとあるからです。教えの内容に驚いたのではないんですよ」
「なるほど。私たちは聖書で読むので、イエス様が権威ある者として教えられたという雰囲気は分かりませんね。Bさんはきちんと読まれたんですね」
「山上の説教はそれなりに衝撃がありました」
「では、どうしましょう。とんでもない教えは無視して放っておきますか。それともできるなら理解したいと思われますか」
「それは理解したいです。イエス様の教えですから」
「私もBさんと一緒にイエス様の教えを考えていきたいと思います。そこで今日は一つ宿題を出します」
「宿題ですか。むずかしいですか」
「聖書を一カ所読むだけです。フィリピの信徒への手紙3章を読んでくださいますか」
「はいフィリピの3章ですね。今日もありがとうございました」
「それではお元気で」