クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

キリストの十字架を私が誇る理由

ガラテヤ 6:14
しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

 私はキリストの十字架の死を誇ると昨日書きました。それは私がキリストと共に死に、キリストと共に生きているからです。キリストが復活したように、私は新しい人として生きているからです。

 クリスチャンには二つの救いがあると思います。一つは今この世における救い。二つ目は死んだ後の救い。この世における救いとは、罪から自由にされて、罪から自由になって生きることができることです。クリスチャンのこの世の歩みは、罪を犯し罪に苦しむ歩みではなく、罪から解放されて生きる歩みです。完璧に罪から解放されることはありません。罪から解放されて生きるとは罪と戦い続ける歩みです。聖霊の助けを受けて、確実に一つ一つの罪から解放されていきます。

 私が教会に求めた救いは、死の恐れと空しさからの救いでした。信仰に導かれ救いを得ました。私はさらに牧師へと召されました。信仰者として牧師として生きる時感じたのは、自分の愛の薄さです。自己中心です。信仰を持たなければ悩みません。自己中心に生きることはある意味当たり前です。そのために身近な人との関係が悪化し、悩み多い人生を送ることにもなります。でもそれが当たり前の人生と人は思うわけです。
 信仰者しかも牧師になった私にとって、愛の薄さは克服すべき課題です。さらに自分の貧しさにも悩みました。さまざまな能力不足、欠点の多さ。

 しかし心の貧しい者は幸いです。自分の力に頼ることを捨て、神に信頼して生きる道へと導かれました。自分の力に頼ることから神に信頼して生きることへの転換は、人間の考え方を変えることでは実現しません。人間にはプライドがあるからです。神に信頼することは神を誇ることです。自分の力に信頼することは自分を誇ることです。人が神と富に兼ね仕えることができないように、この二つのプライドを同時に持つことはできません。人がプライドを手放す時、それは神を誇る時です。

 キリストを信じ、キリストと結ばれた信仰者はキリストと共に死に、キリストと共に新しく生きます。キリストと共に死ぬとは自分のプライド、誇りを捨てることです。新しく生きるとは、神に信頼し、神を誇ることです。自分がキリストとひとつにされていることを信じるのでキリストの十字架を私は誇ります。キリストの十字架は、私をキリストに結びつけるからです。キリストに結ばれるとき、この世の人生を救われて生きることができるようになります。そう私は信じています。

f:id:holala:20210916212346j:plain

彼岸花(別名、曼珠沙華) 散歩道