クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

死の直前の苦痛を前にして

 朝日新聞土曜版で「一人称の死へ」という題のコラムを読みました。僧侶の方が書いています。Aさんと呼ぶことにします。コラムの4回目はAさんの父上が亡くなった時のことが書かれています。今から30年も前のことですが、死の直前激痛で苦しんだそうです。そこで緩和ケアを受け、麻酔を打つ治療があること、これをすればいのちは10日ほどとのこと。Aさんは医師から聞いたことを父上に伝えたところ「やってくれ」とのことでした。痛みから解放されて三週間後に亡くなったそうです。

 このことはAさんには衝撃的だったというのです。亡くなられた父上も禅僧で「生死一如」がモットーでした。「生にも死にもこだわらずに淡々と生きる」との意味のようです。父上はしかし病気からの苦痛を前にして、耐えがたい痛みに混乱し、いのちを延ばすより楽になるほう、つまり「死」を選びました。このことがAさんには衝撃だったというのです。

 Aさんは仏教の教えを説き、死にゆく人に心の安らぎを与えることこそ僧侶の役目だと信じていたというのです。しかし父上の言動は、そんなものは通用しない現実を突きつけたのでした。もう一人、Aさんの親しかった新聞記者のBさんのことも紹介されていました。Bさんも亡くなる直前、鎮痛剤を増やすとそのまま永眠するという医師の言葉に「それを頼む」と即答したというのです。

 苦痛の前には仏教の教えも役に立たなかったことや、苦痛を前にしての父上の姿がAさんにはショックだったようです。

 そして私は思いました。キリスト教も、信仰者と共に神がおられることが平安をもたらすと教えています。死を越える希望、神さまのもとに行くという希望がキリスト者に与えられています。どのような死に方をするのかは問題ではない、と私は考えます。痛いよとわめいてもいいし、もがき苦しんでもいいし、鎮痛剤で苦痛をやわらげてもらってもいいと思います。死は扉のようなもので、この扉の向こうに神さまがおられます。もし病気の苦痛に悩むなら、私はためらわずに緩和ケアを受け、痛みから解放されることを選びます。平安な思いですべてを神さまにゆだねることができたら、幸いだと思います。

 私は痛みは嫌いなので、痛みと闘って雄々しく死ぬことは遠慮します。

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