クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神を恨むのをやめたという話し

 今晩奈良高畑教会の祈祷会で私が話しする順番になったので、「神さまを恨むのをやめた」という話しをしました。祈祷会は今インターネットを利用したリモート祈祷会です。

 私の小さい頃、祖母が亡くなりました。そして私は人間には死があること、死んだ人は二度とこの世に姿を現さないことを知りました。そして自分もいつの日か死ぬことを知りました。自分が死んだら自分がどうなるのかは分かりません。死は恐ろしいという思いが幼子の心に宿りました。死の恐怖を味わいました。幼い私の心は死の恐れを感じるたびに傷つきました。

 大人になった私は信仰を得ました。神さまを賛美することは私にとっては喜びとなりました。でも創造主なる神さまを賛美することにはためらいというか、抵抗を感じることがありました。賛美しても空々しさがあるのです。なぜかと思ったとき、あの心の傷のせいだと分かりました。神様がわたしに命を与え、信仰に導き、私を生かしてくださっていることを信じ、喜びます。でも幼かった私の心がなぜ、傷つかなければならなかったのか、納得できませんでした。神さまを恨んでいる自分がいたのです。

 このままではいけないと思い、思いめぐらしました。

 預言者エレミヤ、使徒パウロは、自分は生まれる前から使命を果たすべく、神さまに選ばれていたと語ります。神さまは私が生まれる前から私を選び、福音宣教者に導くために、私が死の恐れを経験することを許し私を信仰へと導いたのではないか、と考えました。そうでなければ、私は信仰を持つこともないし、まして牧師になることもなかったと思いました。そうです、私への神さまの愛があったのです。神さまの愛は色々な現れ方をします。そこで神さまを恨むことをやめることにしました。神さまを全面的にたたえて歩むことにしました。

 それで心から創造主なる神さまを賛美できるようになりました。「輝く日を仰ぐとき」はわたしの愛唱讃美歌で、心おきなく賛美できるようになりました。

1.(創造主)
輝く日を仰ぐとき、
月星ながむるとき、
雷(いかずち)鳴りわたるとき、
まことのみ神をおもう
(繰り返し)
わがたま、いざたたえよ
聖なるみ神を
わがたま、いざたたえよ
聖なるみ神を

3.(御子)
み神は世びとを愛し
ひとりのみ子をくだし
世びとの救いのために
十字架にかけたまえり

4.(聖霊)
天地つくりし神は
ひとをもつくりかえて
ただしくきよきたましい
持つ身とならしめたもう

5.(終末)
まもなく主イエスはきたり
われらをむかえたまわん
いかなるよろこびの日ぞ
いかなるさかえの日ぞ

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(コップにさした)ツリガネニンジン