老いの日々は、代わり映えしない日々の暮らしです。先日礼拝後の報告で、隠退牧師のM先生が娘さんのもとに転居されたとの報告がありました。奥様が召され一人暮らしをされていましたが高齢のため、生活に不便が生じたのだと思います。娘さんの家の近くに転居されたと聞きました。私も妻の高齢の母を引き取り、二人で世話しつつ共に暮らしたことを思い出します。人は晩年というか、死の前には生活環境の変化があることを思います。病気になれば入院し最期を迎えることもあります。
私は今のところ単調な日々を過ごします。ふと何のために生きているのかとの思いが湧いてきます。老いを生きる日々とは、何のために生きるのかを確認する日々なのかもしれません。
ウェストミンスター大教理問答は次の問いと答えで始まっています。
Q.人生のおもな、最高の目的は、何であるか
A.人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。
この問いを自分に投げかけるなら、具体的にどのように答えたらよいのかと思案します。一つ確かなことは、「いつも喜んでいなさい」(テサロニケ一5:16)を実践することです。今ひとつは神の栄光をあらわすことです。神さまをたたえて生きることと考えます。
ここまで文章を私は youtube で "How Deep the Father's Love For Us" という賛美を聞きながら書いています。「私たちに対する父の愛は何と深いことか」という曲です。この歌は、キリストの十字架をテーマにしています。そこでやはりというか、私の場合は、キリストの十字架の意味、意義をもっと追求することによって神さまの救いの業をたたえることが神さまの栄光をあらわすことになり、また日々の喜びとなるのではないか、と思いました。
追求と言ってもそれは学問的な追究ではありません。父なる神の愛の深さをいかにして具体的に知り、味わうかという追求です。
神さまからの問い
私の愛の深さをあなたの言葉で述べなさい。