クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

御国への一日の旅路を歩む

 私は毎朝祈るとき、今日も御国への一日の旅路を歩むことができますようにと祈ります。一日の終わりには、御国への一日の旅路を歩むことができたことを感謝しますと祈っています。でもこれは型どおりの祈りというか、決まり文句の祈りになっています。このことは老いを生きる日々の単調さと無関係ではありません。老いの日々が単調だから、祈りも単調というか、型どおりの言葉を使う祈りになってしまいます。

 単調であることには気をつけなければならないと思いました。昔エジプトの国を脱出したイスラエルの民は自由に生きることのできる土地を目指して荒野を旅しました。荒野の旅は、おそらく退屈というか、単調な旅だったと思います。刺激といえば、飲み水がなくなったとか、食べ物がなくなったとか、悪いことが起きることです。これでは旅をすることが嫌になってしまいます。イスラエルの民は不信仰に陥ってしまいました。

 そこで単調ではあるにしても、心からの感謝の祈りができるような日々を送りたいと思います。そこでどうしたらいいのか、と考えます。

 先日ブログに今日の一日は当たり前の一日ではないことを書きました。私は今妻と二人の生活をしていますが、いつの日か、どちらかが召され、どちらかはひとりの生活をすることになります。すると二人で一日を共に生きることができることは当たり前ではなく、感謝となります。

 型どおりの感謝にしないためには、一日の生活の中に気づきを持つことが大切だと思いました。感謝できることに気づくということです。私たちが漠然と生きるのではなく、生活の中に起きることに敏感になり、感謝できることを発見するようになるなら、一日の終わりの感謝の祈りが具体的な祈りとなり、型どおりの祈りではなくなります。でも無理矢理に感謝にこじつけることはしないことにします。今日はこんなことを考えました。

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タチツボスミレが咲いていました