クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信じるとは考えること

 今日はマルコ福音書4章35節以下を読みました。イエス様が「向こう岸に渡ろう」と言われ、弟子たちは舟に乗り漕ぎ出しました。やがて突風が吹き出し、舟は波をかぶり水浸しになりました。イエス様は舟の艫(とも)の方で寝ています。舟が沈むかも知れないと恐れた弟子たちはイエス様を起こし、「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。そこでイエス様は風を叱り、湖に静まれと命じました。すると凪になりました。そして弟子たちに「まだ信じないのか」と言われました。

 弟子たちはそれまでイエス様のなさった奇跡をいくつも見てきました。ですから、この場面でも慌てふためくことなく、イエス様に信頼する行動を取るべきだったのです。しかし弟子たちは「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」とイエス様を責めるような口調で語りました。これはイエス様を信頼する気持ちから出た言葉ではありません。

 私が説教の中で語ったことのあるたとえがあります。山道を歩いていたら急に谷となり、前に進めなくなりました。そこに看板があり、ここから向こうに目に見えない橋がかけられています。信じて渡れば、その向こうにまた道が続いています、と書かれていました。信じて渡るか、渡るのをやめるのか。

 私たちの生活の場面でも神さまの助けを必要とする場面は色々あると思います。信仰とは信頼することであると教えられます。信仰とは信頼に基づく行動をすることです。看板を信じて渡るか否か。

 看板の言葉を100%信じることができるなら、信じて渡ればいいです。看板の語ることを信頼しても大丈夫か、との疑いがあるときは渡る気持ちにはなりません。しかし信じたいけど大丈夫かな、という思いがあるときはどうしたらいいでしょうか。

 その時は、自分が信仰者として生きていきたいのか否か、確認すればよいと思います。信仰者として生きていきたいなら、信頼する行動を選べばよいと思います。大切なのは、信頼した行動を取るか取らないかであって、100%信頼しているか、10%しか信頼していないかではないと私は考えます。信頼した行動を取るか取らないか、です。

 目に見えない橋を渡ったら、痛快です。信じるっていいもんだなあ!

 目に見えない橋があると信じることはできなくても、目に見えない橋があると考えることはできます。「信じる」を「考える」で置き換えるのです。信仰とは、橋があると考えて行動すること、と私は考えます。100%信じ切ることができることはあまりないと思います。自分が信じることのできることしか信じないのであれば、それは自己流の信仰で、聖書が伝える信仰とは異なるものになってしまいます。

 私自身は、聖書が語る終末の事柄を100%信じることはできませんでした。だから聖書が語る終末はあると考えることにしました。そして終末があると考えて行動するようにしてきました。終末の裁きが本当であっても困らないように行動してきました。死を越える希望も聖書の言葉によって確かにされていきました。そして今はそんなに疑ってもいません。むしろ本当であって欲しいと願うようになってきました。

「まだ信じないのか」。これは信頼する行動を取りなさいとの意味と受けとめます。

 

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今年最後の野菊かな