今朝は物憂い気持ちで目が覚めました。年をとったからだと思います。これまで二人の人から「いつ死んでもいい」という言葉を聞いたことがあります。二人ともクリスチャンです。信仰生活の長い人です。どんな心境でそう言うのかなと思いました。なぜそう思えるのか聞いておけばよかったと思います。でも人の心の中に入るようなことにはためらいを感じてきました。でも今日は分かったような気がしました。気持ちは人それぞれだと思いますが、私にも「いつ死んでもいい」という気持ちがあることに気づきました。
現役から引退した身としては、仕事はないし、しなければならないことが特にあるわけではありません。追求したい課題はあります。単調な日々が過ぎていくだけです。結局、疲れたのです。長年生きてきたので肉体はやはり疲れ衰えてきました。精神的にも疲れはあると思います。人生にも疲れたのかもしれません。それでいつ死んでもいいという思いに誘われるのだと思います。信仰をもっていますから、神の国に迎えられると信じていますし、この世への未練もそんなにありません。
それでも朝食を用意し、妻と祈り食事を共にし、食後のコーヒーを楽しみ、聖書を読み始めると物憂い気持ちも消えていきます。でもこのままではまた物憂い朝を迎えるかもしれません。神を信じ、神をたたえて生きる者としては、別な朝の迎え方をしたいと考えます。そこでどうするか、です。起きたときに物憂い気持ちが湧いてくるのを抑えることはできません。いかに気持ちの切り替えをするか、です。それもごまかしの切り替えではなく、健康的な切り替えです。
今思うアイデアは、ある讃美歌を聞き、その讃美歌の歌詞を心に浸透させることによって気持ちの切り替えができ、一日の歩みの良いスタートがきれるのではないかと期待しています。