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隠退牧師 holala によるブログ

神が用意された道

 犯罪を犯した人は、その罪に応じた罰を受けます。裁判で宣告された刑に服し、罪の償いをします。誰かが身代わりに罰を受けるということはありません。人は自分の行動に責任を持つべきであり、自分の罪の償いは自分がすることになります。

 聖書は、イエス・キリストは罪を犯した人の身代わりに神の怒りを受け、神の罰を受けたと語ります。人は自分の犯した罪に対して自分で償いをすべきだし、身代わりなんておかしいと語る人もいます。でも聖書はなぜ、イエス・キリストが身代わりになったと語るのでしょうか。

 聖書が問題にする罪は神に対する罪です。神の戒めに背く罪です。そして人は自分の罪を償うことはできないと直接的に聖書は告げていないと思いますが、間接的に語っていると思います。人の犯す罪は償えないほど重いのでしょうか。神ならぬ私には、人の犯した罪がどれほど重いのか分かりません。しかし、どんな小さな罪でも償えないほど重いと私は思っています。

 私は二回、神さまから自分の罪を指摘されたことがあります。一回目の時、自分は罰を受けて死んでも仕方がないと思いました。信仰を持つ前のことで、これがきっかけで洗礼を受けました。二回目の時、私は頭のてっぺんからつま先に至るまで、罪のかたまりであると思わされました。自分の中によいものは何もないとさえ思わされました。

 どう考えても自分で犯した罪を償えるとは思いませんでした。自分で償うことができないので、私の代わりに償いをしてくれる人がいないと、私は神の怒りを受け、罰せられることになります。神の怒りを受けて罰を受けるとは滅びるということです。

 旧約聖書を読むと、人が罪を犯したとき何をすればよいのか、神ご自身が命じておられます。それはいけにえを神に献げることです。いけにえを献げることによって、神は人の犯した罪を赦されるのです。いけにえが身代わりになるわけです。神は罪の償いの代わりにいけにえを献げることを命じられました。いけにえとなる動物の命がささげられ、血が流されます。これは罪の赦しを得るための儀式です。いけにえを献げることは罪の償いとは別だと思います。

 神はなぜ、このような儀式を制定されたのでしょうか。それは神が人を愛しておられるからだと私は信じます。神が人を造られたとき、ご自身に似せて造られました。それは神が人と交わりを持つことを願ったからです。それゆえ神の目にどれほど人間の罪が重く映っても人間の罪を赦し、人間が神との交わりに生きる道を神は開いておられるのだと思います。

 私はここにイスラエルの民に対する神の愛を見る思いがします。それは私たちに対する愛でもあります。しかしイスラエルの民は、私たちは自分の道を自分で決めて歩みますと言って、神なしに生きる道を歩みました。ここに根本的というか本質的な罪があります。神に対して、あなたは必要ない、私に干渉しないでと言うことほど大きな罪はないし、神からすればこれほど赦すことのできない罪はないと思います。しかし神はイスラエルの民を見捨てず、手を広げて交わりへと招いておられます。もちろん私たちも。

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何の実かな?