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隠退牧師 holala によるブログ

クリスマスに思う(1)救い主の到来

 今度の日曜日は教会でクリスマス礼拝が行われます。神さまは救い主をこの世に送り、私たちのために救いの御業を行われました。救い主のこの世への到来、救い主の誕生をクリスマスは喜び祝います。そもそも神さまは、なぜ救い主をこの世に送られたのでしょうか。

 マタイ福音書の1~2章を読むと、イエス様の誕生が預言の実現であると書かれています。ということは、救い主の到来は預言されていた、つまり待ち望まれていたということです。なぜ待ち望まれるのか、その理由は旧約聖書に書かれていることになります。

 救い主の誕生を預言したとされる言葉があります。

イザヤ書  9:5
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

 旧約聖書には、この救い主の死を預言したとされる言葉もあります。

イザヤ 53:1~5
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 これはイエス様の十字架をまざまざと思い起こさせる言葉です。私が救い主の登場と関連すると考えるのがエレミヤ書の言葉です。

エレミヤ 31:31~33
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 神はイエスを救い主としてこの世に誕生させました。そしてイエスが十字架で死ぬことを計画されました。救い主が殺されるのです。そこまでして、神は何をしようとされたのでしょうか。そもそも救いとは何なのでしょうか。しかもイエスは神であり、そのイエスが死んで達成される救いって何なのでしょうか。

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葉を落とした木