今日はコリントの信徒への手紙二11章22~29節を読みました。そこにはパウロがキリストを宣べ伝える中で体験したすさまじいほどの困難、迫害が書かれています。
コリント二11:23~29
苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。
私も神さまからキリストを宣べ伝えるように召されましたが、パウロのように旅行をしながら伝道するわけではなく、一つの教会に腰を据えて、教会がおかれている地域に福音を伝えました。といっても日曜日は教会の礼拝でキリストを宣べ伝え、週日には信徒のお宅の家庭集会で聖書のお話をすることが中心で、パウロの体験したような困難、迫害はありませんでした。時代、場所によって福音を伝える困難は様々です。
すさまじい困難、苦難の中にあるパウロを思うとき、彼はなぜ、その働きをやめなかったのかと思います。もし自分がパウロだったら自分はどうするだろうかとは想像はしません。それは妄想に過ぎないからです。
パウロが働きをやめなかったことは、伝えたいとの思いが強かったからだと思います。何としてもキリストの福音を伝えたいとの思いがあったはずです。キリストは救い主であるとの真理を伝えずにはおれませんでした。
私はこのパウロの姿に励まされます。そして私は親鸞のことを思います。親鸞は師である法然の教えを心から受け入れ、人々に教えを説きました。親鸞は法然にだまされて地獄に行ってもかまわないと語りました。親鸞は法然の教えは真理だと受けとめ、何が起きてもこの教えに従うことを、地獄に行ってもかまわないと語ったのだと思います。この親鸞の気持ちにわたしは共感します。
真剣に信じて生きる人の姿はほかの信仰者の励ましになることを思います。
信じるとは、神さまに自分をゆだねることです。自分が死ぬときは、死んだ後のことは、神さまにゆだねるしかありません。大丈夫だよとパウロは語りかけてくれていると受けとめました。老人とは、自分の死を意識しながら生きる存在です。自分が死ぬのはまだ先のこととのんきに構えているご老人もおられることも確かですが。