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隠退牧師 holala によるブログ

弱さを誇る(続き)

11:30
誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。

 私は老人です。心は若いと自分では思っていても写真を見れば、まぎれもなく老人です。事実、色々な衰えを感じます。衰えは弱さと考えることができます。「衰え」と「弱さ」をつなげると衰弱です。自分が衰弱しているとは思いませんが、衰えを感じていることは事実です。するとこの「衰え」さえも誇ることができるのでしょうか。

 幸いに健康は守られているので、健康的な面での弱さはあまり感じていません。しかし色々な形で訃報を見聞きするので自分の命にも終わりがあること、それはいつ来るか分からないし、今来てもおかしくない状況にあることを知ります。命の終わりをどのように迎えるのかは課題となっています。このような状況でだれもが不安を覚えるのではないかと思います。ある人は「悟り」ということを言うかもしれません。静かに自分の終わりを受け入れる覚悟ができているというわけです。信仰者には、死後の希望があるので、うろたえることなく、平安のうちに死を迎えることができるはずだと言う人もいます。しかし不安を覚えるのも事実です。

 不安を覚える、これを弱さと呼び、この弱さを誇るとするなら、どう考えればよいのかと思います。神さまは私に「恐れるな、わたしがあなたと共にいる」と言ってくださいます。弱さを誇るとき、自分の内に誇ることのできるものを見出すことはできません。

 不安を覚える私に神さまは「恐れるな、わたしがあなたと共にいる」と言ってくださいます。神さまはアブラハムにこう語りました。

「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である」(創世記15:1)。

預言者エレミヤにはこう語りました。

「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」(エレミヤ1:8)。

 不安を覚える者だから、このように神さまは励ましてくださいます。神さまが語りかけてくださるから「不安を覚える」ことを誇ることができる、と思いました。不安を覚えることは決して不信仰ではないと思います。信仰によって神さまの語りかけを受けとめ、喜ぶことができるからです。

 

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