クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

ただ信じなさい

 今朝はマルコ福音書5章に会堂長ヤイロの娘の癒やしの物語を読みました。ヤイロは幼い娘が死にそうなのでイエス様のもとに来ました。おいでになって手をおいてください、そうすれば娘は助かり生きるでしょうと語ります。イエス様ならいやすことがおできになるとの信仰を言い表しています。

 イエス様はヤイロの家に向かいます。するとヤイロの家から使いの者が来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」と言います。ヤイロは落胆したことでしょう。娘が生きていれば癒やしてもらえるのに死んでしまったのなら、もうどうしようもないと思ったことでしょう。するとイエス様は「ただ信じなさい」とおっしゃるのです。「ただ信じなさい」。

 この言葉には信じていいのだよ、信じて大丈夫なのだよ、との励ましの響きを感じました。

 老いを生きるようになると、自分の死を意識するようになります。キリスト者なので永遠の命の希望、復活の希望、神の国に迎えられるなどの希望があるので、ある意味、安心して生きることができます。それと同時にやはり未知の事態に直面することの不安や緊張を覚えるのも確かです。もし自分がガンの手術を受けるとなったら、不安になり、信仰が揺れ動くのではないかと想像します。

 先日は、讃美歌を歌うことによって自分が信仰者であることを思い起こし、大丈夫だよ、希望に生きようと励まされたことを書きました。今日は「信じて大丈夫なのだよ」との主イエスの言葉を聞く思いがしました。

 キリスト者はキリストを信じます。キリストはなぜ救い主と呼ばれるのか、キリストによる救いとは何か、信仰者にはどんな希望が与えられるのか、これらは教理として教えられます。キリスト者は何を信じて、どのように生きるのかが明確になります。キリストを信じる者は罪の赦しを得られ、最後の審判でも罪のとがめを受けることなく神の国に迎えられると教えられます。

 牧師としてこれらの教理を学び、また教え、説教でも語ってきました。教理は知っているし、受け入れて信じています。しかし何かあると信仰者は不安になり、信仰が揺れ動くのも事実です。何があっても揺るがない信仰を持とうというのは傲慢だと思います。揺れ動いて当たり前。そこであらためて信仰とは神、キリストにゆだねることであると思います。人生はゆだねることの積み重ねではないかと思わされます。

 「ただ信じなさい」「信じて大丈夫なのだよ」との主イエスの声を聞いて生きる、そういう信仰者として歩んでいきたいと思わされた一日でした。

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