若い頃、他の信仰者が祈りの中で「ゆだねます」と祈ることに私は違和感を感じていました。ゆだねるという言い方の中に、自分の責任を十分果たした上での祈りなのだろうかと思ったのです。ことわざに人事を尽くして天命を待つとあります。ゆだねるなら、人事を尽くすことが大切なのに、何か人事を十分尽くさずにゆだねると祈っているような感じがしたのです。
そして老いた今。以前から人は死後のことについては神さまにゆだねなければならないのだから、ふだんから、神さまに信頼する歩みを積極的にすることが大事だと考えてきました。死後のことについては聖書が語ることに私は希望をおくわけですから、普段の生活においても、聖書の言葉に従う歩みを心がけました。
信仰者として、自分の信じることは確かであって欲しいという願いがあります。そこで確かだと信じて間違いないという保証が欲しくなります。私が学んだことは、確かさというのは自分の手に握ることはできないということでした。聖書が真理を語る、これを信じるから、聖書が語ることは確かだと信じることができます。確かさは聖書にあるのです。
だから聖書の語ることは本当なのだろうかと疑いだしたら、きりがありません。どこかで打ち切らなければなりません。聖書は真理を語っている、ここにとどまることが大切です。
以前、親鸞が自分の師の法然上人にだまされても悔いはないと語ったことを書きました。自分は師の教えを真理と信じるとの決意を語ったわけです。私も聖書の教えを信じて、だまされても悔いはないとの気持ちを持ちたいと以前ブログに書きました。
ふと今日は気づきました。単純なことですが、神さまが真理だと語られることを私がとやかく言うことはできないと思いました。「神さま、あなたの言うことは本当ですか」というのは、神さまに失礼です。傲慢です。あなたのおっしゃることに従います。あなたにゆだねますと語るのが信仰だと思いました。このことを自分に何度も言い聞かせたいと思いました。人間は神の被造物であり、このことをわきまえることの大切さを思いました。
似たようなことを書いていますが、私は少しあがいているようです。