使徒パウロは復活されたイエス・キリストとの出会いにより、クリスチャンを迫害する者から、キリストを宣べ伝える者に変えられました。このキリストとの出会いは、彼の人生を180度転換させるものでした。このキリストとの出会いについては使徒言行録は物語風に描いていますが、パウロ自身は、ガラテヤ書で次のように簡単に述べるだけです。
ガラテヤ 1:15~16
しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき
神は御子をパウロに示したとだけ書かれています。神はパウロにどの程度御子について教えられたのか、詳細は不明です。イエス様がメシア・救い主であることが示されたことだけは確かです。
この時のパウロの気持ちを想像します。第一に自分は大きな罪を犯したという思いになったと思います。自分は神に熱心に仕えるつもりでクリスチャンを迫害しました。でもそれは間違いだったというのです。まことの救い主を信じる者たちを迫害してしまったのです。何てことを自分はしたのだと自分の罪を思い知らされます。でも罪を犯したという罪意識はまだ実感になっていないと思います。
第二に自分はどこで間違えたのだろうと考えたと思います。彼はファリサイ派の一員で律法の義については非のうちどころのない者であると自分でも語っています(フィリピ3:6)。信仰に熱心でクリスチャンを迫害したのです。イエス様もファリサイ派の人たちから律法を軽んじていると批判され、結果的に十字架の死に追いやられました。おそらくパウロもクリスチャンたちが律法を軽んじているとして、それが正義だと信じて迫害したのだと思います。
自分はどこで間違えたのだろうか。イエスは突然現れ、奇跡を行い、教えを説き、人々の注目を集めた。しかし律法を無視しているとファリサイ派の人たちの怒りを買い、結局十字架で死んだ。その後イエスが復活したとイエスの弟子たちが宣べ伝え、クリスチャンがどんどん増えていった。しかしこのイエスを神が遣わしたなどとどうして信じることができるのだろうか。自分に何か問題があったのだろうか、とパウロは戸惑いの中におかれたと考えます。
第三に異邦人に福音を宣べ伝えなさいと言われても、何をどう語ったらよいのか、わからない。神がメシア、救い主としてイエスを送られ、福音を宣べ伝えるように命じられたのなら、宣べ伝えなければならない。でも何をどう語ったらよいのか。やはり戸惑いの中に置かれたのではないかと思います。
ガラテヤ書にはこう書かれています。
1:16~17
御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
パウロはアラビアに退いたとあります。アラビアは、イスラエルの東側の今のヨルダンのある地域と考えられています。アラビアに退き、しばらく神のこと、自分の信仰のことを思いめぐらしたのではないかと思います。