アラビアに退いてパウロは自分がどこで間違えたのかと考えたのではないかと推測します。
クリスチャンを迫害したのは間違っていた。神の御心に反していた。自分はどこで間違えたのか。イエスを認めなかったことが間違いだったのか。ユダヤ教に熱心な自分にとってイエスを認めることはできなかった。そもそも神はなぜ、イエスを遣わしたのか。それはわからない。自分はその神の御心を知らない。いやそもそも神の御心を知ろうともしなかった。もしかしたらそこが間違いだったのかも知れない。
信仰とは律法を守ることだと考えて守る努力をしてきたし、律法の義については非のうちどころのない者と自信をもって言えるほど守ってきた。律法には神の御心が現れている。だから律法を守り、自分は神の御心に忠実に歩んできた。そう思ってきた。しかしイエスをメシアとして遣わした神の御心は分からない。
自分は律法をどう受けとめたのか。書かれていることを文字通り受けとめ、守るように努力をした。それがいけなかったのか。そんなことはない。ちゃんと守ったのだから。律法には色々な掟が書かれている。その掟は神が定め、守りなさいと教えている。ではなぜ、掟を守らなければならないのか。神が守りなさいと言われるのだから、それ以上のことは考えなかった。でもよく考えれば一つ一つの掟には、それを守るべき理由があるはずだ。だから神は守れという。自分はその理由は考えたことはなかった。神の掟だから守る努力をした。それだけだ。神はなぜ、掟を与えたのか。その掟にどんな意味があるのか。その意味を知ってこそ、神の御心を知ることになるのではないか。
自分は神を信じていた。神の掟を守る努力をした。落ち度がないと言えるほど守る努力をした。しかし具体的な一つ一つの掟をなぜ守るのか、それを考えたことはなかった。神がなぜ、掟を与えたのかその意味を知る努力はしなかった。もしかしたら、そこに自分の間違いがあったのではないか。
もし神の御心を知る努力をしていたなら、イエスが遣わされた理由を知ることができるかも知れない。今からでも遅くはない。聖書は若い時から学んできたから、ていねいに聖書を思いめぐらしてみよう。聖書には我が民イスラエルの歴史が書かれている。律法を守るのが信仰なら、歴史はいらない。律法集があればそれですむ。なぜ聖書にイスラエルの歴史があるのか。あるいは預言書があるのか。もう一度聖書を思いめぐらしてみよう。
*上に書いたことは、私がパウロの心理を想像したもので、実際にパウロがどう考えたのかは聖書に書かれていないので分かりません。もし自分がパウロだったらと考えてパウロを追体験したいと考えています。