クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

パウロの思索

 神が御心のままに御子をパウロに示しました。その結果、パウロは福音を異邦人に告げ知らせるようにとの召し、使命を受け取りました。しかし直前までクリスチャンを迫害していたパウロです。福音を宣べ伝えるとして、キリストを宣べ伝えるとして、何をどのように語ればいいのか、戸惑いがあったと思います。

 パウロはアラビアに退き、思いめぐらす日々を送ったと思います。そしてイエスをメシアとしてこの世に遣わした神の御心と向き合ったと私は想像します。パウロはしっかり学んだ聖書を思いめぐらしたと思います。彼は次のようなことを考えたと想像します。

  • 信仰とは神の掟を守ることではない。自分は誰よりも熱心に神の掟を守ってきた。しかしイエスをメシア、救い主と認めることができなかった。自分はどこかで間違っていた。
  • 神の掟には深みがある。その深みを知らないと掟を上辺だけ守ることになる。自分は上辺だけ守っていて、その深み、つまり掟を与えた神の御心を知らなかった。
  • 人が神の掟の深みを知るとき、自分は神の前に、掟を守り完全に正しい人間であると主張できなくなる。言い換えると人は神の前に罪を犯している。自分は掟を誰よいも熱心に守り、落ち度がないと思っていたがそれはとんでもない思い上がりだった。
  • 神が罪を裁くのなら、人はみな罪を犯しているので誰も救われない。だから神は救い主としてイエスをこの世にメシアとして遣わしたのではないか。聖書には人は罪を犯した場合、いけにえを献げて罪の償いとするように神は掟を定められた。イエスをこの罪の償いのいけにえと神はなさった。それゆえ、このイエスを信じる者は罪を赦される。そういえばクリスチャンたちもそう語っていたように思う。
  • では信仰とは何か。信仰とは神との交わりである。信仰とは神の御心を大切にすることである。神も私の心を大切にしてくださる。心を大切にするとは愛することである。神を愛し、神に愛される、この神との交わりが信仰である。

 そしてパウロは、次のように語ります。

ガラテヤ 2:16
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

 パウロはイエス・キリストを信じる者は罪が赦されると語るのではなく、その人を神は義とすると語ります。パウロはかつて律法の実行により、自分は神の前に正しい者であると確信していました。でもその確信は打ち砕かれました。しかしイエス・キリストを信じることを通して神は自分を義としてくださることを知りました。つまり神はパウロを義なる者として、神との交わりに迎え入れたのです。だからパウロはこうも語ります。

ローマ 5:1
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

 信仰者は神の前に義なる者であり、罪を責められることなく、神との間に平和を得ています。信仰者は罪を犯すかも知れない。きっと犯す。しかし悔い改めるなら、神はその信仰者を義としてくださるのです。

 信仰者は神との関係に生きます。神さまは罪を犯すだろう信仰者を「義人」と見なし、信仰者を義人として関わってくださいます。信仰者は義人として神との交わり、関わりに生きることが神の御心です。

 ここに至って、パウロは福音を宣べ伝えるべく、活動を再開したのではないかと想像します。

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椿 白毫寺 2022.3.8