クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

いつ死んでもいい

 このタイトルでこれまで2回ブログを書きました。今日は3回目です。私は信仰によって老いを生きることを課題としています。老いのなかにあって自分がどんな気持ちでいるのかは、ブログに書くようにしています。老人の日々は、気持ちが変化する日々と言えるかも知れません。

 この「いつ死んでもいい」という言葉はかつて私が仕えていた教会の信徒の人が語った言葉です。この言葉に対する受けとめを2回書きましたが、今回は3回目です。

 信徒の方の名をAさんとします。Aさんがどんな気持ちで「いつ死んでもいい」と話されたのか、その気持ちは分かりません。「どうしてそう思うのですか」と聞かなかったからです。しかし今、この言葉を私も自然に言える気持ちになったように思います。

 どうしてそう思えたのかというと、年を重ね、いわば肉体が生きることへの疲れを覚えてきたのだと思います。楽になれるなら、なってもいいよと肉体が「私」にささやいているのです。こうして人は自分の死を受け入れていくのかと思わされます。

 そこで信仰者としてどんな思いをもって生きるかです。実は使徒パウロも「いつ死んでもいい」と言っているのです。それでパウロと同じ気持ちになることを願います。

フィリピ 1:21~24
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。

 パウロは、「わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい」と語ります。パウロはいつ死んでもいいというより、すぐにでも死んでもいい、キリストと共にいたいから、と書いています。どうしたらパウロのような気持ちになれるのか、私の信仰の課題であり目標です。

いつ死んでもいい(2021.5.4)
いつ死んでもいい(2019.12.9)

f:id:holala:20220314202135j:plain

ロウバイ 馬見丘陵公園