クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

主イエスの思い

 今年はマルコ福音書の14章以下を読みながら思いめぐらし、受難節を過ごしています。今年特に思うのはイエス様の思いです。イエス様はどんな思いで苦難の時を過ごしておられるのか、です。

 イエス様は行動を共にしてきた弟子ユダに裏切られ、何があってもあなたのことは知らないなどと決して言いませんとイエス様に語った弟子たちは皆、イエス様が捕らえられたときイエス様を見捨てて逃げましたし、弟子のペトロもイエス様のことを知らないと三度も断言しました。弟子たちは人間としての弱さを露呈し、主を否定するという罪を犯しました。

 宗教指導者たちは、イエス様を殺そうと裁判を起こします。群衆はイエス様を「十字架につけろ」と叫びます。十字架につけられたイエス様を「救い主なら自分を救え」と人々はあざけりました。救い主を殺そうとし、救い主をあざけるのです。

 イエス様は全くの一人。孤独です。弟子たちは裏切り、人を救うためにこの世に来たのに、人々はイエス様を殺そうとしあざけります。鞭打たれ、つばをかけられ、嘲りの言葉を受けます。イエス様はどんな気持ちなのかと思います。挙げ句の果てに十字架での死を味わいます。

 このような苦難の死を味わうことをイエス様は知っていたし、覚悟していました。人間の罪を次々に見せられ、あざけられ、十字架の上で、肉体的精神的苦しみを味わいます。

 もし私たちがイエス様の立場だったら、抱くような人間的な感情をイエス様は抱いたのでしょうか。それとも人間的な思いを超越されていたのでしょうか。

 キリスト教の歴史の中では、迫害の中で命を落としていった殉教者がいます。彼らは不当な仕打ちを受け、苦しみを味わいながら、死んでいったと思います。イエス様は殉教者の思いに共感されると信じます。言い換えると殉教者は、自分の思いをイエスは分かってくださる、あるいは自分はイエス様と同じ苦しみを味わっていると信じ、これを光栄にさえ思って死んでいったのではないかと想像します。

ヘブル 4:15
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。

 この聖句を考えると、私たちがイエス様の立場だったら抱くような人間的な感情を抱かれたと考えます。しかしイエス様は、それらの感情に左右されず、それらの感情を治めることができたと想像します。

 しかしイエス様は神でもあるので、別な思いを持たれたのではないかと想像します。その思いを私は想像できないので、讃美歌142番3番の歌詞を参考にします。

みよ主のみかしら み手みあしよりぞ
めぐみとかなしみ こもごもながるる

 恵みと悲しみとあります。もとの英語の讃美歌では love and sorrow です。愛と悲しみ。イエス様の心には、人間の罪を悲しむ思いと、罪を犯す人間を憐れみ、人を愛する思いがあるのではないかと教えられます。この愛と悲しみは、私たちに向けられています。

f:id:holala:20220406192254j:plain

散歩道で