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隠退牧師 holala によるブログ

十字架を背負うイエス

 マルコ福音書で十字架に向かうイエス様のお姿に注目しました。

 ローマ総督ピラトはイエス様を十字架につけるためにローマの兵士たちに引き渡しますが、その前にイエス様を鞭で打たせました。ローマが使う鞭には数本の革のひもが束ねられており、おのおのの革ひもの先には金属の輪がついていたようです。この金属の輪が鞭打たれた肌に食い込んだと思われます。そんな鞭で何度か打たれれば出血を伴い肉体は相当なダメージを受けます。

 そんなイエス様をローマの兵士たちはなぶりものにしました。イエス様を王に仕立て、敬意を払うなどしてからかい、また棒でたたき、つばを吐きかけ、なぶりものにしました。それから兵士たちは十字架につけるためにイエス様をローマ総督官邸の外へ引き出します。そしてイエス様に十字架を担がせゴルゴタの丘に連れて行きます。

 ローマ総督の官邸から出てどれほど歩いたのか分かりませんが、兵士たちはキレネ人シモンに十字架を無理に担がせます。十字架を担いでローマ総督官邸を出たイエス様は相当弱っていたと思われます。歩くだけでもしんどいのに十字架を担ぐのは容易ではありません。倒れそうです。それを見たローマ兵は、たまたまそこにいたキレネ人シモンに十字架を無理矢理担がせました。シモンは、イエス様が十字架を背負って歩くのを人々と共に見ていたと思われます。

 シモンが担いでからは、イエス様はただ歩くだけかも知れませんが肉体は相当なダメージは受けています。痛んだ体を引きずってゴルゴタの丘まで歩くのはきついと思います。歩くのをやめて倒れてしまうほどだと推測します。

 この時のイエス様はどんな気持ちで歩かれたのでしょうか。

 まずローマの兵士からは王の格好をさせられてからかわれ、棒で頭をたたかれ、つばを吐きかけられました。イエス様は怒りを覚えたのでしょうか。たぶん怒りは感じなかったと思います。ローマの兵士は組織の末端の人間であり、不満を抱えており、憂さを晴らすために死刑囚をからかうということをしたのではないかと思い、イエス様は人間の卑劣な面にいちいち怒ることはしなかったと思います。人間の卑劣さを思い、罪を思い、むしろ悲しんだのではないでしょうか。そんな人間に憐れみさえ感じたかも知れません。

 シモンが十字架を背負ってくれてからは、ただ歩くだけですが、鞭打たれて傷ついた身で歩くのはとてもきついです。イエス様はなんでこんな目に自分は遭うのかとは考えなかったと思います。苦難に遭うことをイエス様は知っていました。今それが現実となっただけです。

 その肉体はひどく痛んでいます。思いがけないものだったかもしれません。しかし、いくら何でもこんなにひどい目に遭うとは、と神さまを呪ったり恨んだりする気持ちになったのでしょうか。それもないと思います。イエス様はひたすら我慢、忍耐していたのではないかと思います。体の痛みをこらえつつゴルゴタの丘を目指して歩きます。何のために忍耐したのかといえば、人間を罪から救うためです。

 肉体的につらい状態にあって、何かを考える余裕はイエス様にはなかったと思います。しかし心の中で祈ることはできたと思います。祈っているとするなら何を祈っていたのでしょうか。「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」(マルコ14:35)と祈っていたかも知れません。あるいは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈っていたのかもしれません。

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