主イエスは午前9時に十字架につけられました。その主イエスが人々からあざけられたことをマルコは書いています。
通りかかった人たちは、主イエスをののしって、
「十字架から降りて自分を救ってみろ」
とののしりました。人々は主イエスの活動については知っていました。かつて主イエスが行ったさまざまな奇跡は多くの人の知るところとなりました。しかし今、主イエスをののしっています。
祭司長、律法学者たちも
「他人は救ったのに自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」
と侮辱しました。さらに十字架につけられた者たちも主イエスをののしったとあります。
人をののしる、これは卑劣な行為です。人間の心の卑しさを見せられる思いがします。しかしこの卑劣さは誰の心にもあると思います。普段は心の底に隠れていますが何かあると姿を現します。十字架につけられた主イエスを見て、人々は主イエスを嘲り、おそらく優越感を感じたのだと思います。そしてそれは一種の快感をもたらしたのではないかと考えます。
人は侮辱されることには敏感です。自分が侮辱されたり、軽んじられることには敏感です。なぜならプライドが傷つけられるからです。ただし反発の思いをあらわに出すか出さないかは、その時の状況によると思います。侮辱した相手が自分より強い立場の場合は、憤りを出さずに内に抑え込むかもしれません。あるいは憤りを直接行動に現し相手と争うことになるかもしれません。
主イエスは侮辱を受けてどう思われたのでしょうか。主イエスは反感、憤りを感じなかったと考えることができます。主イエスですから、人間的な感情に左右されない心、悟りの境地にいて、侮辱に対しても高みの境地にいたと考えることができます。
でも私は主イエスは反感、憤りを感じたと考えます。主イエスはまことの人だからです。私たちと同じ人間だからです。
ヘブライ人への手紙4章15節
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
この大祭司は、主イエスのことです。主イエスは私たちと同様の試練に遭われたとあります。ですから主イエスも、侮辱、嘲りに対しては、憤りを感じたと考えます。私たちが自分がないがしろにされたと感じて怒るとき、主イエスは「もっと超然とした心を持ちなさい。俗っぽい感情に支配されてはいけません」などとおっしゃるとは考えません。
主イエスはまことの人間でありつつ、罪は犯さない人でした。ですから侮辱した人たちに対して、反感の気持ちを外に出したり、内に押さえ込んだりはしませんでした。そして反感の気持ちに支配されることはありませんでした。言い換えると自分を侮辱した人間は罪を犯したと認識したと考えます。相手の罪に仕返しをする気持ちは主イエスにはありませんでした。むしろ「神よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか知らないのですから」と祈る心に生きていたのではないかと考えたいのです。なぜなら私はイエス・キリストに似た者になりたいからです。