ガラテヤの信徒への手紙 3章26節
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
パウロはキリストに結ばれた者としてどのように生きたのでしょうか。パウロにとって生きるとは、キリストを宣べ伝えること(宣教)です。宣教するとき、パウロはひどい苦難に遭いました。死の危険にも遭いました。
コリントの信徒への手紙二 1章8~9節
兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
こんな苦難や危険に遭うなら、宣教をやめるとはパウロは言いませんでした。キリスト教の歴史の中では、命の危険をおかしても宣教した人がいますし、その中には死んだ人、つまり殉教した人が何人もいます。迫害の中で信仰を捨てずに殉教した人たちもいます。
ではパウロは殉教の精神をもって宣教したのでしょうか。私は違うと考えます。パウロはこう語ります。
コリント二 4:8~11
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
パウロは、キリストとひとつとなって生きることを目指していると考えます。キリストは十字架の道を歩み、死を遂げられました。そして復活しました。キリストに結び合わされた者としてパウロはキリストとひとつになって宣教します。彼が苦難に遭うことは、苦難にあったキリストとひとつになることであり、死の危険に遭うことは、十字架の道を歩むキリストとひとつになることでした。キリストに結び合わされ、キリストとひとつにされることはパウロにとっては栄光なのです。そしてそこにキリストの光栄が現れるといってもよいと思います。
そしてパウロは、イエスの命が自分の体、自分の身に現れることを願っています。イエスの命、それは復活したキリストの命のことです。パウロはキリストと一つになり、苦難と死の危険から救われます。それはキリストの復活の証しとパウロは考えているようです。
苦難と死の瀬戸際にあるパウロは「死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(コリント二1:9)。苦難から、死の危険から神がパウロを救い出し、宣教の働きを継続できるようにされたことは、キリストの復活とひとつになることでした。死んで復活したキリストとひとつになることを目指してパウロはキリストを宣べ伝えたのです。パウロにとって宣教とは、キリストの苦難と死を共にし、キリストの復活を共にすることでした。
キリストとひとつにされて生かされている自分についてパウロは次のように言うのです。
ガラテヤ 2章20節
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きているのです。
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私が引用する聖書は新共同訳聖書です。
「キリストに結ばれる」という表現について
口語訳聖書、新改訳聖書では
「キリストにあって」
「キリストにある」
「キリストにつく」
「キリストにあずかる」などと訳されています。
英語では "in christ"
これはキリスト者の特徴(アイデンティティー)を
示す表現です。
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