クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

キリスト、わが内に生きたもう(4)罪に打ち砕かれるパウロ(1)

 パウロにとって、キリスト者となることはキリストに結ばれ、キリストとひとつになることを意味していました。そのことは彼の生き方に現れました。

 キリストを宣べ伝える働き(宣教)において彼は死と隣り合わせの苦難に遭いましたし、イエス・キリストを復活させた神の力を頼みにして、その苦難から繰り返し救われました。パウロにとって宣教は、キリストの死にあずかり、キリストの復活にあずかることでした。キリストの死と復活をパウロなりに、その身において体験したのです。

 しかしキリストとひとつになることは、彼の内面での出来事でもあったのです。そもそもパウロはクリスチャンを迫害していました。しかし神は彼に御子(キリスト)を示し、イエス・キリストがメシア、救い主であることをお示しになりました。そしてパウロはキリストを宣べ伝える者とされました。

 これまでクリスチャンを迫害していた人間が、簡単に方針転換をしてキリストを宣べ伝えることはできません。彼の心の中に大きな変化が起きたはずです。それがなければ、あのような生き方の大転換ができるはずはありません。彼は心からイエス様がメシアであることを認めなければなりませんでした。ではどのようにして認めるようになったのでしょうか。

 まず第一にパウロは自分の罪に打ちのめされたと思います。クリスチャンを迫害していた頃のパウロは、誇り高き人間でした。

ガラテヤ 1:13~14
あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。

 パウロは信仰に熱心で、律法を守るという点では、誰にも劣らないと自負していました。

フィリピ 3:5~6
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

 律法の義においては非のうちどころがない者だったというのです。律法を破ることが罪と考えるなら、パウロは罪を犯していないとの自負を持っていたことになります。

 パウロは神がメシア、救い主として送ったイエス・キリストを信じる者を迫害していました。彼は神に対して熱心な信仰者であったとしても、神が送ったイエス・キリストを信じなかったということは、彼の中に大きな問題があったということです。言い換えるなら、パウロは神が分かっていなかったということです。神の御心を理解していなかったということです。神の御心の深さに気づいていなかったということです。敢えて言うなら、神の御心を彼は考えたことがないのです。

 イエス様と金持ちの青年の対話が参考になります。マタイ福音書19章です。

マタイ 19:16~21
さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」。男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」。そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」。イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 この青年は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と語りました。パウロはこの青年と同じです。神の戒めを表面的には守っていました。でも完全な信仰者ではないのです。(つづく)

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