クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書を読む生活(2)自分で読む

 聖書を読む生活。人がどのように聖書を読むのか、それはその人の自由です。それが前提です。その上で、神さまに導かれ、祝福される歩みをしたいと願うなら、それなりの読み方があると思います。

 聖書を自分で読むとき、聖書はむずかしいという印象を持つことがあります。むずかしい面は確かにあります。牧師を何十年しても本当の意味がなんなのか、わかりにくい箇所もあります。そういう箇所に限って注解書という聖書解釈の手がかりとなる本でも説明のないことがよくあります。そこで説教者は苦労します。聖書解釈の専門家でも解釈に困る箇所があります。それらは信仰によって解釈する箇所ということができます。

 むずかしいからと言って読むのをやめたり、聖書日課とされる箇所をサッと読んでおしまいにするのはもったいないというか残念な気がします。「読者百篇意自ずから通ず」という言葉もあります。分かるところを読み、分からないところは飛ばしてもいいと思います。段々分かるようになると信じて聖書を読む習慣を身につけたいです。

 何のために読むのか。ある人は聖書をよく知りたいと願い、教会での聖書の学びに積極的に参加し、自分でも解説書を読み、理解を深めることに喜びを覚える人もいると思います。聖書に関する知識が豊かになることは素晴らしいことだと思います。

 私は牧師をしてきましたが、聖書をマスターしたとは思っていません。旧約聖書のゼカリヤ書とか、ハガイ書とか、ヨハネ黙示録とか、内容をきちんと理解していない箇所がいくつもあります。聖書のどの箇所でも解説できることは素晴らしいとは思います。

 信仰者の義務として日々聖書を読むという方もおられると思います。

 私自身は生きるために聖書を読みます。逆に言えば、聖書を読まなければ自分はどう生きていいのか分かりません。大げさと思われるかもしれません。でもそうではありません。私は若いとき、死の恐れと空しさに囚われていました。生きていくためには仕事をし、それなりの生活をしてきましたが、心は満たされません。真の平安もありません。そんな考えても分からないことは考えず、生き甲斐を見つけたらいいのではないか、と言う人もいるかもしれません。でも私は自分の心に正直に生きることしかできませんし、自分の心をごまかすことはできません。信仰を持つ前の状態には決して戻りたくないのです。

 私は生きるために聖書を読みます。目的は二つあります。

  • 物事をどのように考えたらいいのか。価値観。世界観。人生観。
  • 神に導かれる生活をする。

ネモフィラ 馬見丘陵公園