クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書を読む生活(3)自分で読む(つづき)

(1)生きるために読む

 人は何かを選択しながら日々を生きています。平凡な日であれば、習慣で生きていけます。何か事が起きればどうするか、人は選択をします。何をどのように考え、何を大切にして決断をするのか、そこにはその人の生き方、考え方が表れてきます。人が抱く考え方、生き方を人生観、価値観、世界観などと呼ぶことがあります。人は何らかの形で、自分の考え方、価値観、人生観を持っていて生きています。選挙で投票するときは、その人の考えがはっきりと選択となって現れてきます。

 私は、自分の考えの土台を聖書におきます。聖書にもとづいて物事を考え、判断するようにしています。聖書をもとにしますが、その一番の土台は福音です。自分が罪を犯すものですが、神さまは私が神の子として生きていくことを期待してくださっていると信じます。

 また愛すること、つまり神と人を愛することを一番大事にしたいと考えています。私にとって神さまを信頼するとは、神の言葉である聖書に信頼することでもあります。このように生きるために、聖書に親しみ、信仰者としての姿勢を築く努力をしています。これが生きるために聖書を読むということです。

 聖書的なものの見方、聖書的な生き方を身につけることになります。

(2)導きを求めて読む

 牧師としてしたらよいことは沢山ありますが、全部はできません。どうしたらいいものかと悩んでいました。そこで神さまがしなさいということだけをすればよいのではないかと考え、それは何かを求めました。それを神の導きとして求めました。

 神さまは私のことをご存じです。神さまは私を最善に導こうとしてくださると信じます。それで今自分が置かれている立場、状況の中で神さまは何をせよとおっしゃっておられるのかを考えます。祈りつつ聖書を読み思いめぐらし、考え、想像します。そして導きと思えることを実行してきました。

 そのために聖書を読むとき、その日読む箇所から、神さまは私に何をするように求めているのかを読み取るようにしました。明確な導きを読み取れるとは限りません。むしろ、こうすることが御心なのかも知れない、というある意味、あやふやなものかもしれませんが、それを導きと受けとめてそれを行うことを心がけてきました。このようなこと20数年続けてきて、神さまに導かれてきたなとの感謝な思いがあります。

 こうしていつも神さまの御心を求めるとき、心は本当に平安に満たされます。

もみじの花後