私たちは自分を見つめずにはおれない存在だと思います。生きているのは自分自身ですから、自分は何を考え、何を感じ、どんな気持ちでいるのか、それを無視して生きることを考えることはできません。そして自分はああだこうだと言って悩んでしまいます。
私も牧師をしているとき、悩みました。自分より聖書をよく知っている信徒がいる。自分より深くものを考える長老がいる。自分より良い説教をする牧師がいる。自分には何の取り柄もない。そんな風に自分を考えて、自分を喜べませんでした。
ある時、思いました。そんな自分を承知の上で、神さまは牧師へ召してくださった。だから、自分について思い悩むのをやめようと。神さまの恵みに目を向けようと。
ふと思いついたたとえがあります。私は30wの光の電球です。私の近くには50wの光の電球の人がいて、また100wの電球の人がいます。明るさを比較すれば違いがあって、私の明かりは他の人と比べると暗いことが分かります。その小さな違いに思い悩む自分がいます。しかし太陽のもとに身を置くなら、何wで輝いていようと、その輝きは無きに等しいです。圧倒的な太陽の明るさに、人間の輝きなど無に等しくなります。大切なのは、太陽に照らされたら本当に明るいところで生きることができるということです。
他者と自分を比較してのさまざまな違い、それは神の恵みの下に置かれたとき、小さなものになります。理想の自分と現実の自分の違い、それも神の恵みの下に置かれたとき、小さなものになります。私たちを生かしてくださる神さまの恵みの豊かなこと。そこに目を向けたいです。その時、自分の個性を感謝をもって喜ぶことができます。
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神さまの恵みの豊かなこと。神さまは私を愛してくださる。私と共にいてくださる。御言葉を与え、霊の糧で私を養ってくださっている。日々の歩みを支えてくださっている。なすべきことを示してくださる。
私は神さまを賛美することができる。神さまの言葉に従うことができる。神さまに逆らう心を変えてくださる。神さまに祈ることができる。共に生きる人を与えてくださる。家族がいる。信仰の仲間がいる。何より神さまを喜ぶことができる。
神さまを見あげていけば、自分の小ささなど気にならなくなる。神さまに生かされていることが喜びとなる。自分に与えられた使命に生きることができれば、人と自分を比較する必要もない。自分を愛してくださる神さまを喜ぶことができる。
目を外に向ければ、この世界には沢山の問題があり、心を痛めることが多い。でも絶望しないで生きることができる。キリスト者として何をすべきかを教えられる。大きなことはできなくても、御心がこの地上において実現するように祈ることができる。人間の罪がこの世の様々な問題を引き起こしている。問題の大きさ、広がりに絶望を覚えることもある。しかし神さまは救い主を送られた。私たちは混沌の中を生きているのではない。神の国の実現という未来に向かって生きている。その未来に、向かって生きることができる。私たちには希望がある。うれしい。
神さまを見あげよう。救いの神さまを、恵みを与える神さまを。自分の小ささに目を向けすぎて悲観するのはやめよう。私を生かす神さまの恵みを知ろう。その恵みに生かされよう。
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今日は、結婚45周年。過ぎ去ってみればあっという間の45年。でも感謝