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隠退牧師 holala によるブログ

心に湧(わ)いてくる悪い思い

 マルコ福音書7章で、律法学者やファリサイ派の人たちは、主イエスの弟子たちが、昔の言い伝えを守らず、汚れた手で食事をしているが、それでいいのかと尋ねました。
 主イエスは、彼らだけでなく群衆をも呼び寄せ、汚れた手で食べ物を食べても、口から入り、排泄されるだけなので人は汚されない。心の中から出てくる悪い思いが人を汚すのであると教えられました。

マルコ 7:20~23
更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」。

 心の中に悪い思いが湧いてきます。私たちは、悪い思いが湧いてくるので自分は罪深い、汚れていると考えたりしないでしょうか。自分が罪深いから、悪い思いが出てくる、汚れているから、悪い思いが出てくると人は考えます。イエス・キリストを信じても、悪い思いが出てこなくなることはほぼないと思います。するとあるキリスト者は、自分は罪深い者だ、心の汚れた者だという思考から抜け出ることができなくなります。

 ここでは「罪深い」ことと「罪を犯す」こととを区別したいと思います。

 神さまが私たちの罪を問題にするとき、罪とされる行動の責任が私たちにあるからです。アダムとエバは、禁じられた木の実を取って食べ、彼らは罪を犯しました。取って食べたのは、彼ら自身の選択です。だから神さまは彼らの行為を問題にしました。食べたいと思ったら、もう罪を犯したのでしょうか。食べたいと思っただけで罪なのでしょうか。それは違うと私は考えます。

 悪い思いが心の中に湧いてくるのを人は抑えることはできません。気がついたら、悪い思いが心の中に湧いているのです。もし悪い思いが心の中に湧いてくるのを罪とするなら、私は自分の意志とは無関係に罪を犯すことになります。私の意志とは関係なく、ある思いが心の中に湧いたら私は罪を犯したと責める人がいれば私は抗議します。神さまでも抗議します。なぜなら色々な思いが湧いてくるように神は人間を造られたのですから。

 ですから、悪い思いが心の中に湧いたからといって罪を犯していると考える必要はない、と私は考えます。悪い思いが湧いてきたとき、その思いに流され支配されて私が悪い行動をしたとき、その時、私は罪を犯したのです。私はその行動を抑制することができるし、その行動に踏み切ることもできるし、どちらを選ぶかは私の意志です。私の意志だから、行動に踏み切ったとき、その責任は私にあり私は罪を犯したことになります。
 主イエスは教えられました。

マタイ 5:28
みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

 他人の妻を見てみだらな思いが湧いてきたのか、みだらな思いが湧いてきたので他人の妻を見るのか、どちらが先か、それは分かりません。みだらな思いが心に湧いてきたことに気づいたとき、他人の妻から目をそらせばよいと私は考えます。そうすれば心の中で姦淫を犯したことにはならないと私は考えます。他人の妻を見続ける、それは行動です。だから罪を犯したことになります。

 他者を見て批判する心が出てきても、黙っていれば罪を犯していません。でもそれを誰かに言えば悪口を言ったことになり罪を犯したことになります。

 ダビデは姦淫の罪を犯した後、悔い改め、神に祈りました。「神よ、わたしの内に清い心を創造してください」と。

 キリスト者といえども、生きている限り罪を犯す可能性を持っています。生きている限り悪い思いが心に湧いてきます。覚えるべきことがあります。神さまが人間を創造したとき、ある目的を持っていました。

エフェソ 1:4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

 私たちは、心の中に悪い思いが浮かんでくるものですが、キリスト者として生きていくとき、悪い思いが湧いてくるのが段々減っていきます。言い換えるとキリスト者は聖なる者に変えられていく、汚れのない者にされていくのです。これを体験するとうれしくなります。(続く)

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悪い思いが心の中に湧いてくることは罪を犯すことにはなりません。
悪い思いに従って行動するとき、罪を犯すことになります。

バラ 馬見丘陵公園