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隠退牧師 holala によるブログ

人間、罪深きもの(1)人はなぜ罪深いのか

 人間は罪深い存在です。誰かが「私は罪深い者です」と言ったとしても、その人が特別に罪深いわけではなく、人はみな罪深いのです。イスラエルの王ダビデが罪を犯した後に歌ったとされる詩があります。詩編51編です。

詩編 51:7
わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。

 母の胎にある時、すでに「私は罪のうちにあった」とダビデは告白しました。罪のうちにあった、言い換えると罪深い者であったと言ってよいと思います。この一カ所を根拠に、人間は皆罪深いと言っていいのか、との疑問・反論があるかもしれません。人間が皆罪深いことを語る聖書をいくつも引用できます。ここではあと一つだけ引用します。

ローマ 3:9~10
ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない」。

 人間はだれもが罪深いことは論証はできません。またその必要もありません。なぜなら、これは信ずべきことだからです。世の多くの人は自分が罪深いこと、そして救いを必要としていることは信じません。信仰の観点に立つと人は皆罪深いという見方になります。ハイデルベルク信仰問答は、問5で人間の罪深いことを次のように語ります。

わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている。

 人間は皆罪深い存在であると主張すると、ひとつ疑問が生じます。創世記には、神が人間を造られたと書かれています。しかも神が御自分に似せて人を造られたし、造られた人を見て、よかったと神は言われたのです。人間もまた神の目によかったのです。神の目によかった人間が、罪深いというのはおかしいではないか、との疑問です。

 神に似せて造られ、神の目によかった存在である人間がなぜ、罪深い者となったのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答の問7を紹介します。

問7
それでは、人のこのような腐敗した性質は何に由来するのですか。


わたしたちの始祖のアダムとエバの、楽園における堕落と不従順からです。それで、わたしたちの本性はこのように毒され、私たちは皆、罪にうちにはらまれて生まれてくるのです。

 「本性が毒された」とありますが、昔の人は原罪という言葉を使いました。アダムとエバの罪を原罪と呼び、原罪が人間に受け継がれてきたと説明します。現代では、原罪が受け継がれる、つまり遺伝によって受け継がれるという説明に納得する人は少ないと思います。私も納得しません。

 それでは、人はなぜ罪深いのか、人はなぜ罪を犯すのか、どう説明したらよいのでしょうか。これは教義学という神学の書物では多くのページを割いて説明されますが、わたしは簡単に考えています。

 神さまは人間をよいものとして造られました。聖書には書かれていませんが、人間は自由な存在として造られました。神さまは自由な方であり、神に似せて造られた人間は、自由に生きることができる存在です。人間が自由な存在であること、それは神の目に、よいことなのです。しかし同時に人間は罪深いのです。聖書は二つの命題を語ります。

  • 人間は神に似せてよきものとして造られた。
  • 人間は皆、罪深い。

 これはどちらも真実です。二つの命題は矛盾しているように思えます。この矛盾を解く鍵は、「自由」です。神さまに似せてよき者として造られた人間は、自由に生きることができます。神さまは人間が自由に生きることを望まれました。そして人間が自由に生きると、人間は罪深いのです。どういうことでしょうか。(続きは明日)

 

ネジキ 近くの山の中で