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隠退牧師 holala によるブログ

人間、罪深きもの(3)心を清める信仰者

 人間は神によって「良き存在」として創造されましたが、同時に「罪深き者」でもありました。この二つは矛盾するものではなく、硬貨の裏表のような関係にあります。以上のことを前回お話ししました。とは言え、神が創造した人間が、罪深き者であることは、今ひとつ納得できない面があると思います。

 創世記3章にアダムとエバが、神さまが取って食べてはいけないと言われた木の実を食べて罪を犯したことが書かれています。この物語は、人がなぜ罪を犯すのかを物語ります。

 昔の人は、アダムたちが犯した罪が、人類に遺伝して人は皆罪を犯すという説明を信じてきました。21世紀に生きる私にはこの説明は説得力はありません。私はアダムとエバの物語は「私」の物語だと考えます。もし私がアダムとエバだったら同じことをしただろうと考えます。アダムはあなただ、エバはあなただ、と聖書は語りかけます。どのような意味においてでしょうか。

 アダムとエバはエデンの園に住みました。神は彼らにエデンの園にあるどの木の実も食べてよいと言われました。ただし園の中央にある善悪の知識の木の実だけは食べてはいけない、取って食べると必ず死ぬからと警告されました。

 何かがあると人間の心には色々な思いが湧いてきます。蛇がエバに語りかけます。蛇は「この木の実を取って食べると神のように善悪を知る者になるよ」と言いました。これがきっかけでエバは、善悪の知識の実を食べたいとの思いが湧いてきて、取って食べました。そしてアダムも食べてしまいました。

 何が起きたのでしょうか。二人は食べてはいけないという神の言葉に背きました。罪を犯したのです。彼らは神の戒めよりも食べてみたいとの思いを優先し、食べたのです。つまり神の戒めよりも自分の思いを優先したのです。神の戒めより自分の思いを上においたのです。ここに罪があります。そして神の戒めよりも自分の思いを優先したいとの思いは誰にもあります。かくして人は皆、神の戒めに背くのです。

 二人は心に浮かんでくる悪い思いに従ったのです。それはアダムとエバだけではなく、私たちも同じであることをアダムとエバの物語は告げています。

 ここで神が人間を造られたときのことを聖書で確認します。

創世記 1:27
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

 神がご自身に似せて人を造られたとき、男と女を創造しました。男だけではなく、女だけでもなく、男と女を造りました。神がご自身に似せて人を造ると男と女になるのです。どういうことでしょうか。ここに人間の創造の意義を見てとることができます。つまり、人間は他者との交わりに生きるものだということです。男と女は結婚し、夫婦の交わりに生きます。大切なことは愛し合うことです。さらに言えば、神が人間を創造されたのは、人間との交わりを持つためでした。人間は神との交わりに生きるために神に似せて造られたのです。しかも神は人間が強制されて神を愛するのではなく、自由な気持ちから神を愛することを願われました。

 人間の心には悪い思いが湧いてきます。しかしキリスト者が神を愛し、その悪い思いを、神を愛するゆえに、別な思いに、つまり他者を愛する思いに変えることを神は願っておられると私は信じます。

 悪い思いを他者を愛する思いに変えた私の最初の経験はこれです。他者を裁く思いが私の心にありました。初めはこのような思いがあることは当たり前のことと思っていました。しかし聖書を読む中で、これは違うと思いました。人を裁くのではなく、その人のために執り成しをすることが大切だと思いました。それから、裁く思いが出てきたら、執り成しの祈りをするようにしています。このようにして私たちは、悪い思いから清められ、神の子として成長していきます。悪い思いが浮かんだときは心を清めるチャンス!

心を清めるチャンス!

心を清めるチャンス!

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本質的な罪・根本的な罪
神の御心より自分の思いを優先すること

セッカニワゼキショウ 馬見丘陵公園