クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人間、罪深きもの(4)自分の賜物を喜ぶ

 人は神によって、良きものとして造られました。しかしその人間は限界を持つ存在であり、悪い思いが心に湧(わ)いてくる存在です。そこでキリスト者は「私は罪深いものです」と告白したりします。

 しかし私たちがイエス・キリストを信じ、神の子とされ、神との交わりに生きるようにされるとき、事態が変わります。悪い思いが湧いてきたとき、それは別な思い、神の子として生きようとする愛の思いに変えることができます。そしてキリスト者は自分の心を清めることができます。悪い思いは、神の子の思いに変えられるからです。

 その時、限界のある自分という存在は、神から賜物を与えられた存在となります。人は限界を持ちます。しかし寿命があっても命を与えられており、限界があっても能力が与えられています。人と自分を比較するとき、悪い思いが湧いてきますが、比較をせず、自分の持つもの、与えられたものを感謝して用いるとき、自分に与えられたものは賜物となります。神の恵みとしての賜物です。

 人は他者との比較をやめたとき、自分の賜物を喜ぶことができるようになります。人間は長所と短所を持ちます。色々な能力を持ちます。そして人それぞれの性格があります。これらはその人の個性となります。神の恵みとしての個性です。

 人は神の子として生きようとするとき、自分の個性を喜び、これを生かす努力をするようになるのだと思います。

 私の賜物は何か、と考えます。おそらく好奇心は私の賜物だと思います。牧師になったときから、伝道はどうしたらいいのだろうか、と考えてきました。高齢化に伴い、教会は弱体化してくることが予想されるし、どうしたら伝道できる教会が形成されるか、関心を持っていました。そのために、超教派の集会にも出て学ぶ機会を持つように努力しました。

 この好奇心は、さらに福音とは何か、福音追求に向かいました。自分自身罪を犯す者であり、イエス・キリストによる罪からの救いとは何か、追求しました。これにはきっかけがありました。礼拝で司式をする人の祈りを聞くと、キリスト者といえども罪の支配下にあるように感じられ、福音は罪の赦しだけなのか、と疑問に思いました。これでは伝道できません。「礼拝の中で、私たちは罪深い者です。でも罪赦されて感謝です」という祈りが毎週繰り返されるのを聞くとき、未信者の人は神を信じる気持ちになるのかと疑問に思いました。伝道のためにも、そもそも自分が信仰に生きるためにも福音とは何か、追求は大きな課題でした。色々本を読み、さらには一番は、聖書を読み、福音が何か追求しました。

 年老い、牧師の働きから引退した今、樹木に関する好奇心が芽生え、散歩はツリーウォッチングになり、樹木に関する知的好奇心が今は一杯あります。写真を撮り、樹木の名前を明らかにし、散歩の時は友に会うような気持ちになります。好奇心は、神さまの賜物です。

 ブログを書き、少しでも福音を伝え、証しできたらと汗を流していますが、健康を与えられ、今なお使命に生きることができるのも神さまの賜物と感謝をしています。

 会社員の時、プログラミングを仕事としました。牧師になり、自分の仕事の事務合理化のためにプログラミンをしています。説教原稿を作成した後、礼拝で読み上げる原稿にするために、文字のサイズを拡大、行間を広げるなどレイアウトの変更を自動的に行うプログラムを作りました。これも仕事を通して得た賜物と言えると思います。

 自分で言うのも何ですが、バランス思考が私にはあると思います。極端に向かわない思考です。物事を単純化しないことです。一方に偏しない思考です。

 私は聖書理解の立場として改革派の神学に立ちます。宗教改革者カルバンを大切にします。でも井戸の中の蛙にならないように、他教派の人たちの本も読みます。神学を熱心に勉強していて、聖書のことがわかったつもりになる人がいます。聖書だけを一生懸命に読み、神学をおろそかにする人がいます。神学は聖書から生まれたものであり、神学を大事にすると同時に聖書に深く親しむことを私は大切にしています。バランス思考も神さまから与えられた賜物だと思います。

 劣等感だらけの人間でしたが、人と比較することをやめ、神さまは私に個性を与え、賜物を与えてくださったこと信じ、賜物を生かすように歩めていることは、幸いなことであると実感しています。

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人間の個性は神の賜物
自分の賜物を喜ぼう

バラ 馬見丘陵公園