クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人間、罪深きもの(5/5)私のアイデンティティー

 私はキリスト者ですが、自分が罪深い者であることは決して忘れてはいけないと考えています。罪の本質は神を神としないこと、神より自分のことを優先すること、自分を神より上におくことであると信じているからです。色々な罪は自分を第一にすることから生まれてきます。

 イエス・キリストを信じ、信仰によって歩むとき、私たちの思いは清められていきますが、自分を第一にする心はなくなりません。それゆえ、自分が罪深いことは決して忘れません。

 しかし、自分は罪深い者であるというところにとどまることはしません。キリスト者としての私のアイデンティティーは、「罪深い者」ではないからです。キリスト者としての私のアイデンティティーは「神の子」です。イエス・キリストを信じ、神は私を神の子としてくださいました。神は私のことを神の子とご覧になります。だから私も自分は神の子であると考えます。

 自分の目に映る自分(罪深い者)ではなく、神の目に映る自分(神の子)を真の自分と考えて生きていきます。私は神の子として生きていきます。神を礼拝し、聖書を読み、神の子らしく生きることに努力します。聖霊の助けを祈り求めつつ神の子として歩みます。

 しかし「罪深い者である」ことは忘れません。謙遜に自分がいかなるものであるかを心に刻みつつ、同時に神の前に謙遜になり、神が私をイエス・キリストを信じるゆえに神の子としてくださったことを謙遜に受けとめ、これを喜び、私は神の子として生きていきます。「罪深い者である」ことは忘れない決意以上に、もっと強く、もっと強く、自分は神の子であることを思います。

 たとえ誰かが私のことを「デモクリ」(あれでもクリスチャン)と呼んでも、私は気にしません。それはその誰かが、クリスチャンのイメージを勝手につくり、そのイメージによって私を判断しているものであり、本気にする必要はありません。誰かが私のことを「デモクリ」と言うのと神が私のことを「神の子」と言われるのと、どちらを大切にしたらいいのでしょうか。それは明らかです。

 イエス・キリストを信じて神の子とされた私は、神の子としては赤ちゃんであり、神の子として成長していきます。信仰者として生きるとは成長することです。一歩一歩成長し、神の子とされたことを喜ぶ信仰生活を送ればよいと私は考え、生きています。成長する私を見ると人はそのうち、「ホンクリ」(本物のクリスチャン)と呼んでくれるようになります。呼ばれなくても別に構いません。人の評価は気にしません。神さまに喜ばれる者であることをひたすら求めます。

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自分のアイデンティティーをどう考えるかは大切です。
人は自分のアイデンティティーとひとつになろうとするからです。
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シモツケ 馬見丘陵公園