私は自分が神の子とされていると知って、信仰者としての自分を受け入れることができ、落ち着いた信仰生活を送ることができるようになりました。それ以前は、信仰者として生きている自分を自分で評価すると、合格点をあげるわけにはいかなかったのです。別に理想が高かったわけではありませんが、現状の自分でいいとは思えなかったのです。
ある時、キリスト者の「アイデンティティー」ということを知りました。それまでアイデンティティーなど考えたことはありませんでした。アイデンティティーとは、自分は誰なのかを意味します。キリスト者のアイデンティティーとは、神さまがキリスト者のことをどうご覧になるか、ということです。聖書によれば、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けた人は、神の目に、神の子であり、義人つまり正しい人なのです。罪を責められることがない人なのです。
ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
洗礼を受けてキリスト・イエスに結ばれた人は神の子であるとあります。神さまは、洗礼を受けた者を神の子と見てくださり、神の子として関わってくださるということです。
ローマ 3:22~24
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
イエス・キリストを信じる人は義とされます。神の目に正しい者であり、罪を責められることがなくなったのです。クリスチャンは「神の子」、「義人」というアイデンティティーを持つのです。クリスチャンは神の子であり、正しい者なのです。この新しいアイデンティティーを与えられる、それがイエス・キリストによる救いであるということができます。
しかし人は言うかもしれません。「私が神の子だなんて、そのようには思えません。日々罪を犯すのに自分が義人、正しい人だなんて、納得できません」。問いがあります。自分は誰かという問いです。自分は神の子なのか、それとも罪を犯す罪人なのか。義人なのか、そうでないのか。
神の目に映る自分を真の自分とすること、これが信仰です。自分の目に映る自分は真の自分ではないとすること、これが信仰です。でもそれは偽りを信じることになるのではないか、と言う人もいるでしょう。
そこで「すでに」と「いまだ」です。クリスチャンはすでに神の子なのです。すでに正しい者なのです。同時に、いまだ完全な神の子ではありません。いまだ完全に正しい人ではありません。クリスチャンは神の国に迎えられたとき、その時になって完全な神の子とされ、完全に正しい者とされます。
この世に生きるクリスチャンは、すでに神の子とされていますが、いまだ完全な神の子ではありません。そして信仰者として生きるとは、神の子として生きることであり、神の子として完成を目指して成長していくことです。クリスチャンは、すでに神の子ですが、いまだ完全な神の子ではありません。「すでに」と「いまだ」を生きるのがクリスチャンです。
「私は神の子と思えません」とあなたが言うとします。私は言います、「それは、そう、ですよ。神の国に迎えられたときの完全な神の子の姿と比べれば、神の子と思えなくても当然です。でも今あなたは神の子とされているんです。これから神の子として前進すればいいんですよ」。
「私は神の子と思えません」とあなたが言って、そこにとどまるなら、信仰の成長はありません。神の子とされたことを信じ喜び、神の子として生きていこうとするなら、あなたは少しずつ神の子らしくなっていきます。自分でもその変化に気づくようになります。
主イエスはおっしゃいました。
「あなたが信じたとおりになるように」(マタイ8:13)。
何を信じるのか、それが大切です。自分を罪人と信じるのか、神の子と信じるのか。どちらを信じるかは、あなたの自由。そして自分の蒔いた種を人は刈り取ります。