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隠退牧師 holala によるブログ

「すでに」と「いまだ」(4)教訓

 私たちの信仰にとって大切なこととして神の約束を信じることがあります。神の約束に生きる、それが信仰ということができます。神さまは真実なお方ですから、約束を与えられたら、その約束は必ず実現すると信じます。それは「すでに」約束はかなえられたと信じることになります。信じて歩み、実現する日を待ち望むことになります。

 私たちにとって教訓となるのはイスラエルの民です。彼らはエジプトで奴隷として苦しい生活をしていました。あまりの苦しさのゆえに、神の助けを求めて叫びました。すると神は指導者としてモーセを選び、約束を与えます。イスラエルの民をエジプトから救い出し、自由に生きることのできる地へ導くとの約束です。そして神さまは、さまざまな奇跡を行い、イスラエルの民をエジプト王の手から解放しました。イスラエルの民は約束の地に向かって旅を始めます。

 飛行機に乗っていっきに約束の地に行けるなら問題はないのですが、イスラエルの民は約束の地に歩いて行かなければなりません。何日も旅をします。途中で飲み水がなくなったり、食べ物がなくなったり、敵が攻めてきたりと困難に直面します。すると民は文句や不平を言います。しかし困難が起きても神は彼らを救います。そして約束の地の手前に着きました。

 モーセは偵察隊を送ります。その結果、彼らが行く地は肥沃な地で住むのによい土地であることが分かります。しかし、そこには強うそうな民がいます。彼らと戦う必要があります。そこでどうするか、です。

 多くのイスラエルの民は戦うことを嫌います。そして言います。「どうして主(神さま)は我々をこの土地に連れてきて、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返す方がましだ」。

 そもそも神さまは大いなる力を発揮して、イスラエルの民をエジプトから解放しました。旅の途中でも困難に遭うたびに、神さまは奇跡を行って困難から彼らを助けてきたのです。それなのにいざ約束の地を前にして、イスラエルの民は、エジプトに引き返す方がましだと不平を言い、約束の地に向かうことを拒みました。

 これまで困難に出会ったとき助けてきたのに、なぜここで前進することを拒むのか。わたしを信じないのか、と神さまはお怒りになり、イスラエルの民を約束の地に入らせず、荒野で40年間生活させました。そして約束の地に入ることを拒んだ世代が死に絶えたとき、その子供たちの世代を神さまは約束の地に導き入れました。

 神さまが約束を与えられたなら、その約束は「すでに」実現したものと考えるのが信仰です。現実には「いまだ」実現していないかもしれませんが、信仰者の現実は実現に向かっていくのです。しかし困難に直面することがあります。そこで神さまの約束を迷い疑うのか、神さまは必ず約束を実現してくださると信じるのか。人生の分岐点です。

 そして私たちも神の国を目指して、人生を歩んでいます。私たちの人生にも色々なことが起き、神の国を目指す者にふさわしく生きることが大切となります。イスラエルの民は反面教師です。

アジサイ 馬見丘陵公園