クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聞き手の力となり励ます説教

 今日もロマ書を読みました。1章8~15節です。パウロはがローマに何とかして行きたいと書いています。私はそこに福音を伝えるパウロの思いに敬意を払う気持ちに導かれました。

 パウロは語ります。「あなたがたにぜひ会いたいのは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたの所で、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって励まし合いたい」。さらに「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」。

 これを読んで福音伝道者としてのパウロの思いを知ります。何としても伝えたい、それだけではなく、福音を聞いた人が力を受け、励ましを受けて生きていくようになることを自分の責任として受けとめています。このパウロの言葉をようやく受けとめることができるようになったのかと思います。

 牧師として現役で働いているとき、毎週説教をしてきました。しかしその時、「力になりたい、励ましたい」という思いを持って果たして説教していただろうかと思いました。

 牧師になった頃は、説教の準備をすることで精一杯でした。説教を聞く人の力になるとか、励ますとか、そんな思いは持てませんでした。とにかく聖書から語るべきメッセージを汲み取るだけで精一杯でした。聞き手の力になる以前に、福音を語っているかどうか、それが課題でした。

 やがて課題が変わりました。自分が伝えるメッセージに自分が生きているかどうかです。自分が自分の語る説教の言葉に生かされることがなければ説教の聞き手を生かすことはできません。自分が説教の言葉に生かされてなければ、福音を語っていることになりません。説教は福音を語り、人を救い、生かす言葉ですから、自分自身が福音にあずかってこそ、伝えることができるし、そこに証しの言葉が入ってきて、力ある言葉となります。そうなるには言うまでもありませんが、聖霊の助けが必要となります。

 やがて自分が伝えるメッセージに生きて欲しいとの思いを持ちながら説教をするようになりました。パウロが、力になりたい、励ましたいと書いていますが、私もそのような気持ちになって説教してきたと思いました。あらためて説教というのは、聞く人の力となり、励ましとなるものであることを知らされます。

 以前は、納得のいく説教ができたと自己満足していたことがありましたが、それはまったく見当違いであったことをパウロから教えられます。でもロマ書のこの箇所を読むことができて感謝です。

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