クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(1)信仰的現実

 人生航路の第二段階は、イエス・キリストに結ばれて歩む段階です。イエス・キリストを信じない人は、第一段階に留まり続けます。イエス・キリストに結ばれた人は第二段階に進むことになります。

 イエス・キリストを信じる人は、いつキリストに結ばれたのでしょうか。それは洗礼を受けた時、イエス・キリストを信じると告白してキリスト者として歩み始めた時です。洗礼は、洗礼を受けた人がキリスト者として人生を生き始める出発の儀式です。しかし単なる儀式ではありません。なぜなら、洗礼を受ける人はキリストに結ばれるからです。洗礼を受けることによって人はキリストに結ばれます。

ガラテヤ 3:26~27
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

 洗礼を受けて私たちはキリストに結ばれ、また神の子とされます。しかし洗礼を受けた人は、自分がキリストに結ばれていることはおそらく実感していないと思います。いや、キリストに結ばれていることを知らないと思います。キリストに結ばれていると自覚的に生きることを始めることはないと思います。

 実感せずとも、イエス・キリストを信じたので、信仰者として生きていこうとの自覚を持ち、実際信仰者として生きていく努力をすると思います。礼拝に出席し、説教を聞き、献金をささげ、生活の中で聖書を読み、祈り、聖書で教えられる教えに従って生きて行こうとすると思います。確かにこれは、キリストに結ばれた人の歩みです。でもキリストに結ばれた人の歩みはこれだけではありません。

 まず私の話を理解していただくために前提となることをお話しします。それは「事実的現実」と「信仰的現実」の区別と理解です。「事実的現実」とは、だれもが一致して認める現実を指します。実感できる現実ということができます。「今日は暑い日です」。7月の晴れた日なら、これはほとんどの人が認める事実的現実です。事実的現実は、実感できる現実です。確かめることができる現実です。

 それに対してもう一つの現実があります。「信仰的現実」です。これは確かめることができない、そして基本的に実感することができない現実です。だれもが認めるとは限らない現実です。たとえば「イエス・キリストは救い主である」。これは確かめることはできません。ある人たちは「十字架で死んだ者が、なぜ救い主なんだ、笑わせるな」と言うかも知れません。事実的現実はだれもが認めますが、信仰的現実は、信仰者だけが認める現実です。信仰者が信じる現実と言えます。目で確かめることができないので、「霊的現実」と言うこともあります。「キリストは救い主である」、これは信仰的現実です。信仰者にとって現実なのです。

ローマ 1:17
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 信仰者とは、この信仰的現実を信じる人のことです。「神は愛である」、これは信仰的現実です。この霊的事実は、目で確かめることも実感もできないので、場合によっては疑いが生じることはあります。「本当かな」と思ったり、「ちょっと信じられないな」との言葉が信仰者の口から出ることがあります。

 そしてイエス・キリストを信じる人はキリストに結ばれています。これは信仰的現実、霊的事実です。このことを信じて自覚的にキリストに結ばれた者として生きる、それが人生航路の第二段階です。

朝の散歩道で