キリストに結ばれた人のことを聖書はどう言っているのでしょうか。つまりキリスト者のアイデンティティーです。キリスト者はどういう人なのか、です。
ローマ 8:1
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
キリスト者は、罪に定められることがありません。キリスト者は神の前に義人なのです。キリスト者は信仰によって義とされています。罪を犯したら悔い改め、神さまに赦しを求めます。そうすれば赦しを受け罪に定められることはありません。最後の審判でも安心です。
ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
信仰的な現実として、キリスト者は神の子とされています。だから天の父なる神に祈る時、「天の父よ」と呼びかけて祈ります。祈る時は、こう祈るんですよと教えられて「天の父なる神さま」と祈っているかもしれません。あるいは他のキリスト者の祈りを聞いて、祈る時は、「天のお父さま」と祈る人がいるかもしれません。なぜ神さまのことを父と呼ぶのでしょうか。それは私たちが神の子とされているからです。
第二コリント 5:17
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
キリストと結ばれた人、つまりキリスト者は新しく創造された者だと言われています。洗礼を受けてキリストに結ばれた時、あなたは新しく創造されたのです。信仰的現実なので実感はできません。これを信じる、それが信仰者です。私たちは漠然と何かを信じるのではなく、聖書が告げることを信じます。
私たちが自分を顧みる時、罪を犯す自分を見て義とされているとは思えないかもしれません。自分のありのままの姿を見て、神の子であるとは言えないと思うかもしれません。新しく創造された者だと思えないかもしれません。キリスト者は信仰者です。信仰的現実、霊的事実を信じます。キリスト者であるあなたは、義とされた者であり、神の子であり、新しく造られた者です。信じることが難しかったら、自分は義とされた者である、神の子とされている、新しく造られた者とされていると考えることにして、生きることにすればいいです。
信仰的現実は、これを信じ、これを前提に生きていくと、本当なんだと思える時が必ず来ます。それは感謝の時、喜びの時です。
イエス・キリストを信じるあなたを神さまは、義(正しい者)とし、神の子として、新しく創造された者とご覧になります。自分が罪を責められることのない者にされていること、神の子とされていること、新しく創造された者であることを喜んでください。実感はできませんが、神さまの救いの恵みによって信仰的現実となっています。