クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神をどう見るか

 放蕩息子の物語はクリスチャンにはよく知られた物語だと思います。先日この物語を別の視点から見たらどうなるのかとふと思いました。息子たちは父をどう思っているのか、どう思うかという視点です。

 ある人に二人の息子がいました。下の息子はある日、父に自分が相続する財産を分けてくださいと願います。父は財産を分け与えます。すると彼は財産をすべてお金に換えて家を出て遠い国へ旅立ちました。そこで放蕩に身を持ち崩し、やがてスッカラカンになります。そこに飢饉が起き、彼は行き詰まります。彼は我に返ります。彼は家に帰る決心をします。「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人としてください」と言うつもりです。彼がまだ家につく前に彼を見つけた父は彼のもとに走りより彼を抱き、帰ってきた息子を歓迎し、祝宴を開きます。

 それを見た兄が父に不満を言います。「私は何年もお父さんに仕えてきたし、言いつけに背いたこともありません。しかし私が友だちと宴会をするために、子山羊をくれたことがないのに、財産を使い果たして帰った来たあなたの息子のためには、子牛を屠って祝宴を開く」。

 これは主イエスが語られたたとえです。二人の息子が父親のことをどう思うのか、そこに焦点を合わせます。

 上の息子は、父の言いつけに背いたことはなく何年も父に仕えてきました。彼は優等生ともいうべき良い息子です。彼は自分の努力を父が認め、自分に対して父が報いてくれることを期待しています。

 ここには神は信じる者の努力に応えてくれるという理解があります。神の教えを守る者を神は祝福するという神理解があります。神の教えを守る信仰者である自分を誇ることができます。もし教えを守る努力を怠れば、祝福してもらえないという恐れがあります。神は正しい神という理解があります。

 下の息子はどうだったでしょうか。父の財産を使い果たし、父に対して罪を犯したと考え、父にあやまろうとします。自分は息子と呼ばれる資格はないと考え、雇い人のひとりにして欲しいと言いました。

 しかし父は、彼を少しも咎めたり責めたりしませんでした。罪を犯したと告白し、父のもとに帰ってきた彼を父は受け入れました。彼を赦し、彼をわが子として迎え、祝宴を開いて喜びました。おそらく彼は父のもとで喜んで父に仕えて働いたことと思います。

 ここには罪を告白して神のもとに立ち帰る者を赦し受け入れる憐れみ深い神という神理解があります。

 一人の父親に対する見方が二人の息子では違っています。上の息子は父に認めてもらうために父の言いつけを守り父に仕えます。父と共にいることはそんなに嬉しくありません。下の息子とは、父と共にいることがありがたくうれしい。そして父の言いつけを守り父に仕えることは喜びです。

 あなたは神をどのような方と受けとめているのか、問われるように感じます。あなたはどんな気持ちで神さまの教えを守ろうとするのか。

知人の庭で