クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人間の滅びについて

 昔になりますが、私が牧会していた教会の教会員の姉妹が近隣の教会で牧師をしていました。ただし他教派の教会です。その方がある時、「葬儀は伝道の機会です。人は死と向き合いますから。そこで信じない者は滅びること、信じる者は救われることを語ります」と話されました。私は滅びを語り脅迫して信仰に入るように勧めているように聞こえて、脅迫はいけないよな、と思いました

 それが影響しているかどうか分かりませんが、説教の中で滅びを語ることはしてこなかったと思います。どう語っていいのか分かりませんでした。

 最近、ローマの信徒の手紙を少しずつ読んでいます。この手紙でパウロは福音を語る時、まず神の怒りから語ります。

ローマ 1:18
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。

ローマ 2:5
あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。

 神が正しい裁きを行われる怒りの日、それは最後の審判とも呼ばれます。この裁きによってある人は永遠の命へ、ある人は滅びへと振り分けられます。

 聖書の中でも最も有名な聖句の一つを紹介します。

ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 聖書が告げる救いとは滅びからの救いだと書かれています。滅びとは一体何か、それは分かりません。しかし私は聖書が滅びを語っていることは大切にしたいと思っています。ロマ書を読んで滅びを語ることをためらってはいけないと思うようになりました。しかし滅びを語り脅して信仰に導こうとするのはよくないと思います。聖書が救いと滅びを告げていることを淡々と語りたいと思いました。

 聖書は罪からの救いを福音として伝えていること、罪の結果は滅びであることは伝えてよいと思います。

 かつて若い時、自分の罪を思い知らされた時、神の裁き意識し、イエス・キリストによる救いのあることを思い起こしてほっとしたことがあります。それによって私は洗礼に導かれました。人が自分の罪に気づいた時、聖書が滅びのあることを伝えていることを知っていれば、救いに導かれる可能性があります。滅びを耳にしていなければ、他の人も同じだ、自分だけじゃないと罪を真剣に受けとめることなく、あいまいなままに放置することになるかもしれません。

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