クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(19)神の戒めを喜ぶ

ローマの信徒への手紙においてパウロが語るキリスト者像を先日ブログに書きました。もう一度書きます。

  1. キリスト者は律法に背いても罪をとがめられず、罪の責めを受けません。
  2. キリスト者は神を知り、神を喜び、神を誇ります。
  3. キリスト者は神の戒めを喜んで進んで行いたいと考えます。
  4. 神はキリスト者に神の戒めを行う力を与え、キリスト者は神の戒めを守ります。

 今回は3番目です。「キリスト者は神の戒めを喜んで、進んで行いたいと考えます」。

 私はクリスチャンが「神さまの戒めを守らなければならない」と語るのを何度も聞きました。なぜ、守らなければならないと考えるのでしょうか。気持ちは分かります。牧師として私は、これこれのことをしなければ立派な牧師になれないと思い、あれをしなければ、これをしなければと考えて苦しい思いをしたことがあります。そこには立派な牧師である自分を誇りたいとの思い、人から立派な牧師であると思われたいという人間的な欲求があったのです。そして心の内にはなりたくてもなれないというジレンマを抱えていたのです。

 私たちはイエス・キリストを信じる者は義とされることを聖書から教えられます。言い換えるとイエス・キリストを信じる者が救われます。

 これは、神の戒めを守る者が神の前に正しい者であり、救われるという考えと対立しています。使徒パウロは、こう述べます。

ロマ 3:20
なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 律法を実行することによって神の前で義とされることを願う人は、「律法の書に書かれているすべてのことをたえず守らなければならない」からです(ガラテヤ3:10)。そしてこれは人間には不可能です。だから神さまはイエス・キリストを信じる者を救う道を開いてくださったのでした。

 人はイエス・キリストを信じることによって救われます。それなのになぜ、神の戒めを守らなければならないと考えるのでしょうか。

 パウロの伝道によってガラテヤ教会ができました。パウロが去った後、ガラテヤ教会にユダヤ人教師がやってきて、救われるには、イエス・キリストを信じることは大事だが、割礼を受けなければならないと教えました。それでガラテヤ教会は混乱に陥りました。パウロはガラテヤの信徒への手紙を書き、割礼を受けなければならないという考えは間違いであることを指摘しました。

 救われるためには割礼を受ける必要もなく、神さまの戒めを守らなければならない、という制約もないのです。恵みによって救われます。キリスト者は、「~しなければならない」という束縛、義務から自由にされているのです。

 ですから、もし「神の戒めを守らなければならない」と考えている人がおられたら、そのように考える必要は全くないことを覚えて欲しいと思います。それだけで自由になります。

 もし立派なクリスチャンになるために「神の戒めを守らなければならない」と考えるのでしたら、立派なクリスチャンになることをあきらめた方がよいと思います。方法が間違っているからです。つまり神さまの戒めを守らなければならないと考えても、実際には守ることができないからです。

「神の戒めを守らなければならない」と考え、守る努力をしたら、他のキリスト者が、あなたは立派なキリスト者だと評価してくれるかもしれません。それを期待するなら、そうしたらいいと思います。でも他者の評価はむなしいものです。「神の戒めを守らなければならない」と考え、守る努力をしている自分に満足したいなら、そうしたらいいと思います。でも自己満足もむなしいものです。

 「神の戒めを守らなければならない」と考える必要のないことを聖書は「律法から解放されている」(ローマ 7:6)と言います。あるいは「あなたは律法に対しては死んだ者となっている」と聖書は言います(ローマ 7:4)。

 なぜ「神の戒めを守らなければならない」と考える必要はないのでしょうか。それは、私たちが喜んで神さまの戒めを守りたいと考えるようになるからです。ここには不自由はありません。喜びがあります。キリストに結ばれたキリスト者は神の戒めを喜びます。

暑い夏。買物で。