先日使徒パウロの書いたローマの信徒への手紙3章の言葉、「神を探し求める者」を思いめぐらしました。
ローマ 3:10~11
正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
この句の直前には「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にある」とあります。世の人は皆、罪の下にあり、罪を犯して生きており、正しい者はいないと書き、神を探し求める者もいないとパウロは書きます。このような状況のこの世界に、神は救い主としてイエス・キリストを送ったことになります。
「神を探し求める者」とは一体どのような人のことを言うのでしょうか。使徒パウロはどのような人を想定しているのかと考えます。人によって答えはさまざまだと思います。そしてこの言葉は、あなたは神を探し求めているのか、と問いかける言葉に思えます。
偶像礼拝と呼ばれるものは人間の要求に応える神を信じます。人は宗教儀式を行い、人間の願いに応えてくれることが、崇められる神の役割となります。偶像礼拝者は、神を探し求めることなどしません。神は人間の願いに応えてくれれば良いからです。
哲学者はその哲学の中で、神を探求しました。神学者もまた、神を探求しました。神学者は聖書をもとにして神を探求します。そして神に関する叙述が神学書としてまとめられます。これは聖書が告げる真理の探究の一つの成果と考えることができます。神が世界を創造した目的は何か、神はなぜ、救い主を送り、十字架で死ぬようにされたのか。これらを追求することは真理の追究として大切なことです。そして神を探求することになります。
しかし使徒パウロが「神を探し求める者」を語るとき、それは神学者を指しているとは思えません。信仰に生きることと神を探し求めることは別々のものではなく、むしろ結びついていると考えます。神を探し求めるから信仰に生きることができるし、信仰に生きるから神を探し求めると考えます。神を探し求める者とは信仰に生きる者です。どのように信仰に生きるか、です。
聖書が証しする神は、ご自身に似せて人間を造られた神です。人間に人格があるのは、神に似せて造られたからです。聖書の神は、人間と交わりを持つことを願う神であり、信仰とは神との交わりに生きることです。神は見えないし、その声も直接聞こえてくるわけではないので、神との交わりといってもピンとこない面があるかもしれません。
一組の男女が結婚し、夫婦として生きていきます。彼らは夫婦の交わりを生きることになります。夫婦の交わりが破綻し、離婚に至ることもあります。離婚に至らずとも、皆が幸せな結婚生活をするとは限りません。結婚生活において大切なことは、お互いの心を大切にし、相手の人格を重んじることだと私は考えます。結婚生活は、ある意味で訓練の場です。交わりに生きる訓練の場だと考えます。神との交わりに生きるための訓練の場です。
神を探し求める者、それは神との交わりに生きることを志し、神の御心を求めて生きる人と私は考えます。そして神の御心を求めることに到達点はありません。なぜなら、私の状況に応じて、神の御心が変化するからです。それは神の心変わりということではなく、神が真摯に私に向き合ってくださるということです。
私は、日々聖書を読み、私に対する神さまの御心を思いめぐらします。取るに足りない存在でしかない私ですが、神さまは私を愛してくださり、顧みてくださると信じます。私にとって、この神さまの御心を思いめぐらすこと、それが神を探求することであると思いました。そして今ひとつ、福音を、十字架を探求することもわたしにとっては神を探求することです。
ヘブル 2:1
だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。
この聖句は、私たちに「押し流されないように」警告しています。日々の生活に押し流されると神さまの御心を見失う可能性があります。そうならないように神を探求する者であり続けるよう努力します。