クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(33)信仰は恵みを受け取る管

 神学校に通っていた頃、ある先生が学生たちに問いかけました。「私たちは行いによってではなく、信仰によって救われると言いますね。でも信じるって人間の行為ですよね。としたら人は行いによって救われるのではないですか」。その時は、なんかおかしいな?と思いましたが、何がおかしいのか反論できませんでした。


 神さまは、神の言葉を信じるアブラハムの信仰を義としました。信仰とは、神さまの恵みを受け取る管のようなものです。管を通って恵みが私たちのもとに来ます。管がなければ受け取ることができません。

 たとえば、私たちがイエス・キリストを信じる信仰によって義とされると聖書に書いてあるのを読みます。あるいは説教で「信仰によって義とされます」と聞いたとします。私たちの頭の中には、人は信仰によって義とされると聖書が教えているという知識が入ります。知識が頭の中に入ったからといって何も変化は起きません。私たちはそれを知っているというだけのことです。私たちは日々、色んな知識を頭の中に入れます。大事でないことは忘れていきます。

 しかし、信じると事態は変わってきます。信じると恵みが私たちの心に入ってきます。私は神さまによって義とされていると信じるなら、自分は神さまから罪人と認められることはないし、従って罪のゆえに罰が来るのを恐れることもないし、心に平和が宿ります。

 さらに律法(神の戒め)から解放されます。律法は「私を守りなさい」と言います。だから信仰者も、神の戒めは守らなければいけないと考えるかもしれません。「守らなければならない」、これは窮屈です。私たちを束縛します。そこで私たちは答えます。「私たちは信仰によって救われるのです。私たちに向かって守らなければならないって言わないでください。なぜ守らなければならないのですか。理由を教えてください」。律法を守らなければならないという束縛から自由になります。この自由をたっぷり味わってください。

 信仰によって義とされると信じると恵みが私たちのもとに来ます。恵みが来たら、私たちの行動が変わります。恵みに生かされるからです。信仰は、恵みを受け取ります。信じるということは恵みを受け取るということなのです。

ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

 あなたはキリストに結ばれて「神の子」なのです。罪を犯す自分が神の子だなんて、信じられない? でもこれを信じるのがキリスト信仰です。信じることができるように祈ってください。

 神さまは、神の言葉を信じる信仰を義とする方です。信じませんか。信仰は恵みを受け取る管です。信じれば「私は神の子とされている」という恵みを受け取ることができます。「信じるとは、私は神の子とされていると考えて、一歩を踏み出すことです」。信じると信仰の世界が開けてくるのです。私たちは神の子として生きていくことになります。信じると私たちの歩みが変えられていきます。

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