神の戒めで一番大切な戒めは、神を愛することです。神を愛するってどういうこと?神を愛するとき、どんな感情を抱くのか、昔考えたことがあります。答えは出ませんでした。そして今、考えながらこの文章を書いています。
人を好きになる「好き」と「愛する」は違います。「好き」には、かなり感情が伴うように思いますが、「愛する」には、どんな感情が伴うのでしょうか。
神の第一の戒めは、申命記に出てきます。
申命記 6:5
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
「愛しなさい」という命令は、人間の意志に訴えています。しかも「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くす」とあります。感情に強く動かされてのことではないと思います。強い意志を要求しています。
人がこの「尽くす」努力をするとき、どんな思いを抱くのでしょうか。もし「いやいやながら」この努力をするとしたら、あるいは「そうしなければならない」という「強いられている」との思いを抱くとしたら、本当に神を愛していると言えるのでしょうか。
出エジプト記 20:6
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
神を愛する人は、神の戒めを守ることが想定されています。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神の戒めを守ろうとするとき、どんな思いを抱くのが、愛するにふさわしいのでしょうか。「いやいやながら」「強いられて」「そうしなければならない」というような気持ちで神の戒めを守る努力をするとき、それは神を愛しているとは言えないと思います。むしろ何かを恐れて悪いことが実現しないように、努力しているように思えます。
むしろ「喜んで」「進んで」「自由な気持ちから」神の戒めを守る努力をするとき、神を愛するにふさわしいと言えるのではないかと思います。
イエスのことを三度裏切ったペトロは、復活した主イエスから「あなたは私を愛するか」と尋ねられました。ペトロが「愛します」と答えると、また「あなたは私を愛するか」と尋ねられ、「愛します」と答えました。3回主イエスは問い、ペトロは3回「愛します」と答えました。正確に言えば、3度目は「私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」とペトロは答えました。
この主イエスの問いには、主イエスを裏切ったペトロに対する赦しの思いが含まれていると思います。またイスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態から救われて、神からあの第一の戒めを与えられました。ですから神を愛するとき、大切な要素として「感謝の心」があるように思います。そして感謝には、ありがたい、うれしいという感情が含まれているように思います。
神さまが「わたしを愛しなさい」と命じられるとき、そこには救いの出来事があり、神さまを愛するようにとの招きがあるように思います。そして私たちは感謝をもって、その招きに応え、神さまを愛するのだと思います。どうでしょうか。私たちの場合はもちろん、イエス・キリストによる救いの出来事があります。