クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(48)恵みとしての戒め

申命記 6:5
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 昨日のブログで、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛するとき、キリスト者は「喜んで」「進んで」「自由な気持ちから」神の戒めを守る努力をすると書きました。ではなぜ、喜んで、進んで守る努力をするのでしょうか。

 一生懸命守れば、神さまはほうびとして祝福してくれるから、という考えは、私は採用したくありません。そもそも人間の罪を赦すとき、神さまは恵みによって赦すのであり、人間の行いを認めて赦すのではありません。神さまには、人間の行いに応じて報酬を与えるという考えはないように思います。神さまは、神さまの方から恵みを与え、その恵みを感謝して人が生きることを願っておられると信じます。それが神さまのなさり方だと信じます。

 ですから、神の戒めは恵みなのです。人間に祝福をもたらす戒めなのです。たとえば殺すな、盗むな、姦淫するな、嘘つくな。現実の世界では、これらの戒めが破られ、色々な不幸が起きています。罪がなせるわざです。みんなが、この戒めを守れば、安心して平和のうちに生きていくことができます。神の戒めは恵みであると受けとめるなら、喜んで、進んで守ることができると思います。私自身は、このような思いで神さまの戒めを守る努力をしています。

 すぐ上に「神さまは、神さまの方から恵みを与え、その恵みを感謝して人が生きることを願っておられると信じます」と書きました。これが神さまのやり方だと書きました。本当でしょうか。

 私がそう信じる第一の根拠は出エジプトの出来事です。エジプトで奴隷で苦しんでいたイスラエルの民をエジプトから解放し、自由に生きることのできる土地へと神さまはイスラエルを導きました。その彼らに十戒を与えました。

 第二の根拠は、言うまでもなくイエス・キリストによる救いです。イエス・キリストによる救いは、罪の赦しだけではなく、私たちを愛に生きることができるように導く救いだからです。

 第三の根拠は、神さまはこの私をこの救いへ導いてくださったからです。神さまが私たちに与えてくださるものはすべてよいものであると信じます。使徒パウロは「苦難をも誇りとします」と書いています(ローマ5:3)。それだけパウロは、主イエスが共におられることを知っているのだと思います。あやかりたいです。

現の証拠(ゲンノショウコ) 散歩道