マルコ福音書12章にある、やもめの献金の話しを思いめぐらしたことを昨日のブログに書きました。思いめぐらしたあと、次のように祈りました。
主イエスはやもめの献金に目を留め、彼女が精一杯献げているのをご覧になっています。主イエスの眼差しは小さな者へも注がれていると教えられました。
老いて人生の夕暮れを歩んでいると、色々な思いが交錯します。それらは心を励ますよりも、落ち込ませる方向に導きます。注意しなければなりません。今朝賛美した讃美歌で「生くるも死ぬるも、ただ主を思う」とありました。主イエスは、やもめにも心を留めてくださる方であり、私をも心に留めてくださる方です。それゆえ私も心を主に向け、「ただ主を思う」ことに集中してみたいと思いました。
今朝、讃美歌453番を賛美していたら、次の歌詞に出会いました。
見よや、救いの君を 世のため悩みて
あがないの道を 開きしイエスを
ひらきしイエスを
この讃美歌は「見よや、救いの君を」。肉眼ではなく、心の目で見なさいと勧めています。「救いの君を見る」「ただ主を思う」いずれもイエス・キリストが開いてくださった贖(あがな)いの道、救いに目を、思いを注ぐことを勧めています。イエス・キリストによる救い、それは私たちの原点であり、出発点であり、常に立ち帰るべき原点であると思わされました。
人生の夕暮れを歩んでいると、色々な思いが交錯します。気が滅入ったりします。それらは心を励ますよりも、落ち込ませる方向に導きます。そんな時、そして今、主イエスによる救いを賛美する讃美歌を歌い、原点に立ち帰り、新たに出発したいと思いました。救いの恵みを心に聞かせることにしました。
讃美歌11番
生くるも死ぬるも、ただ主を思う
ゆるがぬこころを あたえたまえ